膨大な選択肢の中でもがく、ネット社会で生きるわたし
「知らない方が良いこともある」という言葉は誰もが一度は聞いたことがあると思う。
高校生の頃わたしはそれは違うと思った。知った上で出来ることがあると思っていたから。
現在ネット社会が発達し、膨大な情報が簡単に手に触れられるようになってきた。
それは良いことか悪いことかなんて一言で言えることでなく、全ては表裏一体である。
例えば今は小学生が、今の自分のステータスや身分、置かれた状況だけでなく親の立場までもを相対的に見ることが出来てしまうほどの情報が簡単に手に入る。
これは、情報を正しく入手出来ていない(偏った情報ばかり得ている)可能性もあると思うが割愛…
小学生ながら、絶対的な自分の価値観や見方では無くたくさんの相対的な評価の海を見てしまうというのはなんともコメントし難い。
今までは小中高と育った環境の中のコミュニティの対話からしか他人の情報を得る手段がなかった。
公立なら公立の、私立なら私立の、海外なら海外の同じ学校のコミュニティの子同士としか。
つまり、似たような環境で育っている人としか交わうことがなかった。
だから知らない。わたしも小学生の頃は知らなかった。他のコミュニティの存在も、他のコミュニティの人がどういった生活をしているのかも。
しかし今は?
インスタやツイッターなどで簡単に他の人の生活、生活水準を“見れてしまう”のだ。
昼夜問わず、見たい時にいつでも。ふと目をやればそこには全く知らない別コミュニティの人の生活がある。そんな生活。
必然的に得られる情報量が一気に増加する。
するとどうなるだろうか。
様々な他人の生活を生き様を見る(知る)と、自然と自分の人生における選択肢も増えるのだ。
「こんな生き方もあるのか」「学生なのにこんなことも出来るのか」「すごい、こんな職業もある」「◯◯にはこんなところがあるんだ」
しかしこれは未来だけで無く、これは過去にも広がる。
失った(与えられなかった)選択肢への後悔が生まれる。
「あの頃こうしていればよかったな」「◯◯に生まれていればこんなことにはならなかった」「もっと◯◯な家庭に生まれたかった」
このように、膨大な情報を簡単に手に入れれる現在ではそれらはたくさんの可能性を生む。
未来の選択肢が増えることはメリットであるが、実際わたしはたくさんの選択肢を得てしまったが故に苦しい。
全てになれる可能性があるが、その時々の選択で選べるのはひとつだけだ。
辿ってきた過去の選択肢も、今それ以外の選択肢をいかに羨ましく思ったところで変えられない。選べる(生まれてきた)家庭がひとつであるように。
そして溢れる情報の中で、無意識に良くも悪くも比較をする自分が出てくる。自分の人生を自分視点では無く第三者目線で考えるようになってしまうのだ、分かれ道での選択に当たっても。
臆病になる、今までそれを知らなければ自分が絶対基準で選べたことも相対的な基準を必要以上に気にしてしまう。そんな自分がいる
知らなければしなかった後悔、知らなければ感じなかった劣等感、顔も見ぬ他人への妬みや嫉妬
知ったからこそ選べた道、知っていたからこそ経験できたこと、知っていたからこそ出会えた人
一体どちらが良かったのか、一概には言えない。
これからは自分の絶対的な基準を大切にしながらも、上手くこの手に溢れる他人の生き様や情報と向き合っていく術を身につけていきたい。
そう感じた8月の終わりでした🕊
長々と見ていただきありがとうございました
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