科学と感覚の科学
感情で書いた駄文です。ブラウザバック推奨。
野村克也さんが亡くなった。彼がNPB、いや日本球界に残した功績は計り知れない。盗塁を防ぐためのクイックモーションや江夏豊のストッパー起用、配球の担い手としての捕手の役割の強調やデータ野球の魁となる画期的なアプローチは現代野球にまで生き続ける。「野村克也なくして現代野球なし」という言葉に首肯するファンは少なくないだろう。
この発言の主体がそんなことを意図しているわけでないことは百も承知の上で。個人的には、これが必ずしも真だとは思わない。野球部の存続さえ危ぶまれていた京都の無名校出身の野村がプロを目指していなければ、新聞配達のアルバイトで知った南海ホークスの入団テストを受験していなければ、合格し、練習生として南海に入団していなければ。
恐らくその時は、別の誰かが彼の果たした役割を果たしていただろう。1シーズンで106もの盗塁を積み重ねた韋駄天福本豊を止めようとする者が彼以外に現れなかったとは考えにくいし、試合の大局を見据えて実力のある投手を最後に起用する戦術も、彼以外の誰かが導入していた可能性が高いと思う。その対象が江夏豊でなくなった可能性はあるが。
いずれにせよ、「○○がいなければ」という反実仮想が、その人物のやったことをそのまま消し去るだけで成立しないということは間違いないだろう。誰かがいない世界では、残された人々の選択が変化し、場合によってはその人物が果たした役割を代わりに果たす別の人物が現れる。重要なのはそのイベントが起こることそのもので、その担い手はいわば偶然によって決まると言ってもいいのかもしれない。野村が「偶然」ホークスの主力選手・監督の座に就かなかったとしても、代わりにそのポジションに入った選手は野村と同等の実力を持った人物であっただろうし、仮にそうでなかったとしても、別に彼の果たした役割を一人ですべて担う必要はない。
野球史・歴史をサイエンスしたいのであれば、こうした見地に立つことは極めて重要である。経済学における因果推論はこの「彼がこうしていなければ」をいかにして推定するかという問題と戦う学問で、筆者も「野村がいなければ誰かがやった」という主張を支持するだろう。野球の文脈で例えるなら「科学的に見て、年度間相関の弱い勝負強さは偶然の産物」と主張するのもこうした考え方によるものと言えるのではないだろうか。
※今後「勝負強さ」が何らかの方法で定量化され、その存在証明がなされる可能性ももちろん否定はしない。
しかし筆者は、これらの記述が本質的を捉えることと、実際に起こったイベントの担い手を評価することとは互いに矛盾しないと考える。
彼がいない場合がどうだったかは知らないが、野村克也は紛れもなく現代野球を読み解くキーとなるような功績を残してきた。最終回のチャンスで昨夜のゲームの行方を決めるタイムリーヒットを放ったヒーローは間違いなく得点圏で打ったのである。それが偶然であるかどうかは別にして、野村の生き様や得点圏でのバッティングを評価すること自体に異論はないだろう。
どちらが正しい、間違っているではなく、そもそもの問題設定のズレ。「科学」と「感覚」が起こしてきた齟齬・衝突の正体は、ひょっとするとこうした部分に"も"存在するのではないだろうか。付言すると、その衝突の正体を突き止めようとする営みは、間違いなく「科学」の一端に数えられる問題であると思う(したがって、こうして感覚だけで何かを主張しようとするのは必ずしも褒められる行為ではない)。
"科学者"の端くれとして、こうした問題の本質にも斬り込める存在でありたい。そんなことを考えさせられた野村克也さんの訃報であった。人の死をきっかけにモノを書くのもどうかと思ったが、人の死が人に思考を促すのもまた、偶然が引き起こしたイベントの一つなのだろう。
最後になりましたが、野村克也さんのご冥福を心からお祈りします。
【2/13追記】
そういえば #note書き初め でした。今年もよろしくお願いします。
貨幣の雨に打たれたい