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「ベースボールのコンテスト化」とは

あと何日かで今年も終わるので(2020年中にこのnoteが完成していることを願ってキーを叩いています)、今回は久々にポエムを書きたいと思います。ポエムはですます調で書かないポリシーがあるので今回もたぶんそうです。そんなに長くするつもりもない(追記:なかった)のでサラッとスクロールして頂ければ。それでは本編へどうぞ。

追伸:あけましておめでとうございました。今年もよろしくお願いしてます。

いんとろ

 物議を醸したのは、引退から早2年弱、アマチュア指導資格の回復を経て先日初めて高校生相手に指導を行った元シアトルマリナーズ(新幹線とアルゼンチンを交互に並べると…?)のイチローさんが放ったこの一言。

『2001年にアメリカに来てから2019年現在の野球は、まったく違うものになりました。頭を使わなくてもできてしまう野球になりつつあるような。』
『メジャーリーグはいま、コンテストをやっているんですよ。どこまで飛ばせるか。野球とは言えないですよね。どうやって点を取るか。そういうふうにはとても見えない。』

(いずれも『Number Web「MLBはいま、コンテストをやっている」イチローが高校球児に伝えたかった“日本野球の美しさ”』より引用)

 ステロイド時代からビートザゴミバコ時代まで、実に19ものシーズンをMLBで過ごしたイチロー氏が「今のMLBがやっているのは野球じゃない」とは手厳しい表現である。「どこまで飛ばすか」を引き合いに出した言い回しはデータ主導の現代野球に対するアンチテーゼとも受け取られ、ネガティブな感情を抱いた読み手も少なからずあったようだ。

 そこで今回考えるのは、彼の言う「頭を使う」とはどういうことか、である。発せられた言葉を発せられたままの形で受け取り、ロジカルな反駁を考えるのも有益だが、自分自身が受け入れられる・実になるような形でそのコンテクスト、発言の意図を読むのも悪くないだろう(ぺこぱ)。ということで、ここでは筆者が「コンテスト化した野球」を納得できる形で解釈した過程を書き殴っていく。

じゃんけんはなぜ面白いのか

 全く関係ない話だが(本当は関係あるので話している)、じゃんけんは面白い。各に与えられた戦術はグーチョキパーの3つにすぎないが、それらが三すくみの関係になっていることでしょうもないズル(後出し、最初はパーなど)以外に必勝法が存在しないという構造を形成している。子供の喧嘩の仲裁から高校野球の先攻後攻決め、アイドルグループのセンター争いに至るまで、今日でも多種多様な揉め事に決着を付ける公平な手段として重用されており、シンプルかつ高度に洗練された競技と言えよう。あまりに面白いので、某民放チャンネルでは毎週日曜日の夕食の時間帯に主婦との定期戦が開催されているほどである。

 経済学には、こうした「複数のプレーヤーが各意思決定を行い、それぞれの選択の組み合わせが各個人の利得を決定する」状況を分析する「ゲーム理論」と呼ばれる枠組みがある。じゃんけんは自分と相手の出す手が両方あって初めて勝敗(orあいこ)が決まる遊びなので、ゲーム理論の格好の分析対象になる。

 上はじゃんけんを例にしたゲームの利得表である。各セルの左の数字がプレーヤー1、右の数字がプレーヤー2の利得を表しており、ここでは便宜的に勝った場合の利得を+1、負ければ-1、あいこなら0を受け取るという設定にしている。当然受け取る数字が大きければ大きいほどプレイヤーの効用は改善される。例えばプレーヤー1がグー、2がチョキを選択した場合は上から1段目、左から2番目のセルにある(プレーヤー1が1、2が-1)の利得が実現するという読み方になる。

 これを見ると、じゃんけんにいわゆる必勝戦略が存在しないことがわかる。プレイヤー1がグー、プレイヤー2がチョキを出した時にはプレーヤー1が勝利するが、プレイヤー2が出す手をパーに変えれば勝者はプレーヤー2に代わる。更にプレーヤー1がチョキに変えれば…という具合に、どちらかのプレーヤーが出す手を変えれば有利になるような状況が全ての戦略の組について成り立っている、いわゆるいたちごっこの状況である。

 では、必勝戦略が存在しない状況において、人はどのような選択を取るのか。ここで役立つのが、『セイバーメトリクスの落とし穴』をはじめとするお股本の中でもたびたび強調されてきた「トータルでの最適化」である。本noteではこれをゲーム理論における「混合戦略」と読み替えて考える。

 混合戦略のキモは、複数の選択肢の組み合わせを一つの戦略として認める点にある。1度の勝負で出せる手は1つだが、「どの手をどのぐらいの確率で出すか」を決めてその確率に従って3つの手をランダムに出す、という戦略ならば、長期的には「グー・チョキ・パーのいずれか一つだけ」の間、いわゆる中間択を実行することができる。

 じゃんけんの例であれば、相手の出す手が全く読めない状況において「適当に:それぞれの手を1/3の確率で出す」ことがそれにあたる。例えば相手が「グーとチョキを半々の確率で出す」という戦略を取っているならば、グーを出し続けることで優位に立つことができるが、相手がそれを嫌がることも予想できるので、最終的には両者「全ての手を1/3ずつの確率で出す」ことを選択する。これが、(特に同じ勝負を繰り返す場合の)じゃんけんの必勝戦略となる。

 長々とじゃんけんを引き合いに説明を続けてきたが、野球における勝負の多くもこれに近い状況と言えるだろう。投手は多様な球種を様々なコースに投げる一方、打者は特定の球種を読み打ちしたり、逆にどの球種にも対応できる待ち方をしたりと様々な戦略を持っている。プロ同士の対戦になれば、投手がたとえ160km/hに迫る速球を投げてもそれだけでは打ち返される可能性があるし、どんなに遠くに飛ばす力を持った打者もストレート一点張りでは鋭く曲がる変化球を打ち返すことはできないだろう。

 実際には更にもう一つ「常に狙ったところに意図したボールを投げられるわけではない」という確率的な要素が存在するので話はもう少し複雑化するが、よほどの実力差がない限り、「これだけやっておけばOK」という戦略が存在しないことは直感的にも理解しやすい。プロはその試合の中で、そしてシーズンの中で同様の勝負を繰り返し行うから、長期的には最適な混合戦略を取れているかが重要な影響を及ぼすことになる。「速い・強いフォーシームが空振りを取れる」ことと「フォーシームをもっと増やす」ことがイコールでない、と言えばお股本の内容とも整合的だろう。

 "ランダムに"は必ずしも「適当に」「等確率で」を意味しないことに注意されたい。すなわち、じゃんけんの例で出した1/3という確率はゲームの構造に応じて変動しうる値である。
 「グーで勝ったら3歩進む」「チョキなら10歩」「パーなら6歩」でゴールを目指すアレ(地域差があるので名前はしらん)はじゃんけんの応用形として分かりやすい例である。この場合もどれか一つを出し続けるだけでは裏を取られるという基本構造は変わらないが、どの手で勝ったかが利得の大きさに影響していることが重要である。「チョコレイトディスコ」で10歩進めるチョキ、「パイナップル」で6歩進めるパーに対して、「(登録商標のため自粛)」のグーは3歩しか進めないから、3つの手を等確率で出すよりも良い確率の組み合わせが存在する。理論的には「パーを多めに出して6歩を稼ぎつつ、グーをできるだけ減らしてチョキの当たりを待つ」という戦略が必勝戦略となる。

正解信仰がもたらす戦略の単一化

 さて、ここでようやく冒頭の発言に戻る(もうみんなブラウザバックしてるよ(ブラウザバックしてたらそもそもここ読んでないでしょ))。「頭を使わない」という彼の発言を(あくまで筆者自身に有益な形で)解釈すると、その真意は

人間の情報処理能力の限界に由来する正解信仰の形成

への警鐘、にあると考えられる。

 ここまで何度も強調してきた通り、野球はその構造上「全員、全ての状況に対する単一の正解が存在しない」競技である。仮に全知全能の神が野球に関連する要素すべてを取り出してきて分析を行ったとしても「これだけやっとけばいいよ」という戦略は見つからない。たぶん。

 ところが一方で、人間は(主語でか)とかく「正解」を見つけたがる存在である。データ分析の結果が「打球角度を上げた方がいいけどまずは強い打球を増やした方がいいよ革命」ではまず流行らないし、「基本シフト敷いた方がいいけどバントされそうならやめてね」は指示として曖昧過ぎる。

 その戦略を実行するプレーヤーの情報処理能力にも限界がある。「この戦略をこれぐらい、あれはこれぐらい、それをいい感じで混ぜろ」と混合戦略の形で指示を出されても「で、結局どうすればいいの?」となるだろうし、逆にケースを細分化して「フライボール革命にはカーブを投げるといいらしいよ」と伝えれば思考停止でカーブを投げ続けてしまう投手もいるだろう。それこそ「パーにはチョキが強いよ」と言われて無限にチョキを出すような戦略が平気で選択されうるし、筆者自身も日常生活の中で「これやれば無敵っしょ」と軽率な判断を下して後悔することが少なくない。

 経済学では、人間がその情報処理能力の限界故に、意図せず(客観的に見て)非合理的な選択肢を取り続けてしまうことを人間の「限定合理性」と呼ぶ。ゲームの複雑さ故に都度考えるためのコストがかさみ、それを避けるためにシンプルな単一の戦略に頼り切ってしまう状況は、まさに限定合理性が生み出したものと考えていいのではないだろうか。

 セイバーメトリクスによる膨大な情報の整理は、野球界に多くの恩恵をもたらした。「得点圏に対する強さは再現されない」「特定の状況で打球方向・打球角度の傾向が変化することはない」といった知見は、続けて戦略のシンプル化を導く。あくまで評価する側の視点として、とにかく強い打球を打てる選手を求めることがそれに当たる。

 しかし一方で、こうした知見が全て、選手の勝負所への強いこだわり、データから感性までフル活用した鋭い読み合いを前提に集積されたプレーであることを忘れてはならない。「考えてもコントロールできない」ことは「コントロールできないから考えなくてもいい」ことを必ずしも意味しない。選手自身には、コントロールできないことが分かった上でなお、グラウンド上では細部に目を凝らし、相手が見せた一瞬の隙から次の一手を選ぶためのヒントを見つけようとする姿勢が求められるだろう。

 イチロー氏が冒頭の発言で意識していたのは、こうした「正解の選択肢を決めつけて、その結果としての失敗の責任を放り出してしまう」姿勢に対するアラートである、と読むと腑に落ちる。無論MLBの中でもトップクラスに君臨する選手たちがこうした"落とし穴"にハマっているとは言えないし、実際彼らの我々のような素人には考えつかないような超人的なプレー・アイデアに驚かされることが多いのは間違いない。しかし、特に晩年若手選手との交流も盛んに(我々にも見える形で)行っていたイチロー氏の目には、チームのデータ班が出してきた分析、あるいはトレーナーのトレーニングプログラムを鵜呑みにしてアプローチを過剰にシンプルにしてしまう:自分の頭で考えることをしない選手・関係者の姿が映っていたのではないだろうか。

 同じ混合戦略を実行するにしても、割合だけ決めて後は思考をやめ、運を天に任せてしまうのと、打席に入った相手打者の雰囲気から待ち球を読み取ろうとアンテナを張り、その場、そのケースにおける最適解を模索し続けるのとでは結果も変わってくるだろう。もちろん人間の認知能力の限界が誤った結論を導くこともあるだろうが、そうした時のためにグラウンドの外から野球を見る人々も控えている。利用可能なデータを適切な形で処理する技術を高めつつ、そうでない部分からも何かを感じ取るための姿勢を持つべきだ、という主張ならば、我々一般ピープルにも役立つ発言として受け容れられる。

 「あまりに詳細なデータ分析は野球をつまらなくする」とよく言われるが、筆者は少なくとも野球に関して、そのような心配をする必要はないと考えている。野球に関わる要素が全て解明されたとしても、なお選手たちには自分の頭で考えて戦略を混ぜる余地があるからだ。

まとめ(たい)

 さて、2021年の書き初めとなった(2020年中に出すんじゃなかったの)今回は、イチロー氏の発言を例に「自らが納得できる文章の読み方」を議論した。冒頭の繰り返しになるが、(とくにインターネッツにおける)他人の発言の影響は、発言者が何を意図しているかではなく、それを自身がどう読んだかによって決まる(そんなこと言ってたか?)。意見を表明すること、それによって自身の立ち位置を明確化することの重要性は近年ますます高まっているが、一方でそれを自分を高めるような形で理解し、生産的な活動に繋げるための思考も求められるようになるのではないだろうか。
という提案をもって、今回のnoteの締めとさせて頂きます。

 お疲れ様でした。いつもお世話になっております。こんな感じの駄長文で良ければ今年もお付き合い下さい。それではまた次回。 

#Ballgame_Economics #イチロー #野球 #MLB #セイバーメトリクス #note書き初め #最近の学び

おまけ

 おまけです。今年も本体はここです。歌詞は延々と韻を踏み続ける某童謡のオマージュ。しっとりしたメロディとシンセが大変いい感じです。アルバムとは異なり、YouTubeでの再生環境を想定してあえてモノラル録音版を公開するこだわりがすてき。

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