民主主義の腐敗を意味するポピュリズム②
前回私のコラムではポピュリズム、ポピュリストの台頭を自分なりに分析をさせてもらった。その分析結果はポピュリズムの台頭を許したのは政治的な事柄に無関心を示すようになった大衆であり、そのような大衆に効果的に訴えかけ支持を集めるためにポピュリストが現れると考えた。
ポピュリストは政治家が目的を達成するための道筋をただ合理的に思考し判断した一種の形であるとし、非難を浴びるべき対象をポピュリストから逆の大衆側へと誘導する結果となった。
そして、ポピュリストは将来独裁者という恐ろしいものへと変貌する可能性もハンナ・アーレントの「全体主義の起源」を紹介し示唆した。
ここで一つの疑問が生まれる。なぜノンポリ(nonpolitical)と呼ばれる政治的無関心な人々が増えてしまったのかという疑問だ。
私は前回のコラムの最後で政治的判断能力の低下という表現を使用しているが、政治的判断能力の低下は政治的無関心な姿勢から導かれると考えている。このコラムはノンポリの増加という現象の理由を多角的な視点でとらえ、提示することを主題とする。
ノンポリの増加を最も赤裸々に物語っているのは選挙の投票率だろう。2019年の参院選の投票率は48%と50%を下回る形となり、特に10代、20代の若者の投票率は30%代と低い結果を示している。
総務省のデータを参照すると景気悪化などを理由とする社会状況の不安から投票率が上がっている時期もあるが軒並み減少傾向であることは否めない。
実は投票率の低下は他の先進国でも見られる現象である。先進国の中でも日本、アメリカ、フランスの三か国の投票率は驚くべきことに大差がない。私たちのイメージとして欧米の人々は政治参加の意欲が高いと思いがちだが、数字を見るとそのような先入観は誤りだったようだ。
ここから私が考えうるノンポリの増加の要因は4つある。
分かりやすいように先に結論からいってしまうと
①人間を社会の歯車に変質させる教育制度
②人々が政治に求めるのは「金」
③当たり障りのない政治を行っている既存体制
④人口増加による相対的な主権の価値の低下
まずは①から説明していきたい。人間を社会の歯車に変質させるというのはどういうことか。
それは与えられたことだけ全うすればよいという受動的な教育が施されることによって、能動的に思考する能力が育たずただ日本社会に組み込まれる歯車に日本人が成り下がってしまうことだ。
教育で重要な点は教科書に書かれていることをただ覚えるのではなく、自分の頭で考えさせることだ。でなければ思考能力は育たず何が正しく、何が悪いかを振り分ける天秤の支点は不安定になってしまう。
自発的な思考能力は政治的な判断を下せる基盤となる。この基盤を日本人は盤石にすることができていないのではないか。
自由主義社会において能動的に思考する能力は何よりも重要である。なぜなら自由というのは選択権が全て己に委ねられているからだ。
本来自分に対する深い理解や理想、夢が選択の指標となるが、受動的な教育を受けていると能動的な思考が阻害され、指標がわからず選択が自分ではできなくなってしまう。
これが人間が歯車という部品になってしまうということだ。
しかし、今の社会では自分の意見を持ち、発信することつまり主体性を持つことが重要である。そのため社会に順応できず、例え高学歴だとしても社会で活躍できない人や形だけ順応できたとしても社会で息苦しさを感じる人が少なくないのだ。
人間は部品に成り下がれるほど単純な構造ではない。
個人の思想は誰しもが持っているが、それを自分自身で考えさらに深めていくことを受動的な教育によって妨げられているのではないか。日本の教育はノンポリの卵を作るシステムと考えたほうが適当だろう。
次は②の説明だ。①と②には因果関係がある。社会で生きていくための選択の指標がわからなくなった人々は何を指標とするのか。それは社会唯一の普遍的かつ至高の価値基準すなわち「金」である。
教育の話に戻るが日本の教育は日本の企業に就職し活躍できる人材を育成するための学習に特化している。つまり難関大学に合格し、優良企業に就職し金を稼げるような人材の育成に比重を置いている。
そのような人間をどれほど排出したかが実績となり、学校の評判を左右するのも公立、都立、国立に関わらずビジネスの一環であるため採算がある程度とれていなければ成立せず、学校の評判は何よりも重要事項なのだ。
学校の需要者である父兄もこのような教育制度の受益者であるため、学校の実績を重視する。
政治的に無思想、無関心なのは政治とお金はあまり結びつきがないと思われてしまうからだろう。お金を価値基準とする人々は自分の身の回りの経済活動しか興味を持てなくなり、政治を自分とは関わりのないものだと処断してしまう。
もちろん言うまでもないが政治とお金は密接につながっている。減税を公約に掲げる政党が政権を握れば納税の負担が減り、自分の手元によりお金が残るようになることに気づかない人が多いのだ。
選挙の投票率は景気が悪化した時期に高くなっており社会的な不安、不満はほとんど経済的な理由で引き起こされることは顕著である。これは日本人が無思想となり、ただお金を求める拝金主義に陥ったことの証左だろう。
③は①と②と違い人々の心理的な面から離れ、政治的な一面から理由を求めた。
世界的に既存の政治体制が凝り固まった現状維持の運営を行っていると考えられる。そしてそのような姿勢が人々の政治的無関心を助長しているのではないか。
しかし、人々がノンポリになったせいで現状維持の運営を行っても文句を言われなくなったともいえそうだ。正直この順番はニワトリと卵という関係でどちらが先かはあまり言明できない。
だが流動性のない政治が人々のノンポリ化に拍車をかけたのは事実だろう。政治には現状を変える力は無いという一種の諦めが主権者の中で常識となっており、自民党はこのような主権者の感情を利用し長く政権の地位をほしいままにしている。この既存体制がポピュリズム政党を台頭させる一因となっている。
今世界では既存の政治体制に辟易している無党派層は多数存在し、理由もなく投票している人々もいる。こういった層から根こそぎ支持を奪える可能性がポピュリズム政党にはあり、良かれ悪かれ社会を変革できる力があるのだ。
④は言葉のままだ。先進国は経済の発達と医療技術の進歩により、少産少死の社会が実現した。
主権が存する国民が増えたことによって国民は昔の人間が命を賭して勝ち取った権利の尊さを頭では理解している人もいるかもしれないが主権者が多数存在することによって価値を正しく認識できなくなった。
例えば金という物質の価値が高いのはその華美な見た目からではなく、希少性に起因する。仮に金が鉄鉱石のように多く手に入れば、金の価値は失われ金を持つことの利点はなくなる。
権利も同じで、主権を持つ人間が多数存在すれば認識において相対的に価値が下がってしまう。選挙権を持っていても、自分一人が票を投じたことで社会は何も変わらないとあきらめるのはこういった認識が奥底にあるのではないか。
ポピュリズムが世界的な現象であることを以前説明した。そして世界的をより明確にするならば民主主義が成熟した先進国と呼ばれる国々であり、その共通点は一定の経済成長を遂げ変化に乏しくなった国だ。
過半数の人が生きてゆくのに困らなくなった国で民主主義は必ず腐敗する。民主主義を担う人々がある程度の富を得て満足することで政治的関心を失うからだ。
ペリクレスはペルシャ戦争に勝利し、デロス同盟の盟主となった全盛期、カエサルはポエニ戦争などに勝利し、ローマが大きく経済規模を発展させ市民が「パンと見世物」を要求するようになったのちに現れている。
私は今後世界でポピュリズムはさらに伸びるかもしれないが、日本では息をひそめる可能性も考えている。
アメリカではポピュリストであるトランプが当選を果たしたが日本で同じことが起こるとは考えにくいのだ。
なぜなら日本人は変化を恐れている。
最近、日本人の研究で日本人は権威主義的な傾向があると書かれていた。長いものに巻かれるという言葉がある通り、既存の強大な権力に従っていればいいという考え方だ。この傾向は私が先ほど述べた受動的な教育の賜物ではないか。
ポピュリズムが伸びる土台が整った環境で裏目の結果が出た場合、その状況も私にとっては異常な現象として映るだろう。権威に隷属する人間が多いということはエリートが支配する寡頭制へ移行しても問題ないのではないか、むしろそちらのほうが現状よりも正しく機能するのだとしたらと考えると日本に民主主義は最善ではないのではないかと私は疑念を募らせるのである。
Polimos管理人 テル
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