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5分で人物史 | 《最終話》エリザベス女王の曽祖母 - アレクサンドラ・オブ・デンマーク

20世紀に入って間もない頃、イギリス王室で大きな出来事がありました。

イギリスを大いに繁栄させ、「大英帝国の母」と呼ばれたヴィクトリア女王が崩御し、63年にわたる彼女の治世が終わったのです。

(ヴィクトリア女王の葬儀の様子)

女王亡き後は、長男がエドワード7世として即位しました。

そして彼の妻である、デンマークから来た美貌のプリンセス、アレクサンドラは53歳でイギリス王妃となったのです。

今回は、全4話の最終回。彼女がイギリス王妃として過ごした時代〜夫に先立たれてから亡くなるまでの話です。 

第1話(少女時代〜婚約まで)
第2話(結婚式のエピソード)
第3話(プリンセス・オブ・ウェールズ時代)

この間起こった第一次世界大戦は、アレクサンドラにどの様な影響を与えたのでしょうか。

◆クイーン時代(1901 - 1910)

夫エドワード7世が即位してから亡くなるまでの9年間の時代です。

(1905年・60歳頃のアレクサンドラ)

㇄孫育て

王太子妃〜王妃時代を通して、アレクサンドラには合計9人の孫が生まれました。

うち6人は次男ジョージとその嫁メアリーの子でしたが、次男夫婦は大英帝国を周るツアーで長いことイギリスを留守にしたり、そもそも嫁メアリーは「子育ては侍従に任せるのが王家のしきたりである」という考えで、育児熱心なタイプではありませんでした。

家族仲が良く温かい家庭で育ったアレクサンドラは、そんな両親を持つ孫達を不憫に思い、よく甘やかしていたそうです。

(アレクサンドラと孫達)

㇄日本出身のペット

アレクサンドラが動物好きである事は③でも触れたのですが、この頃日本から新しいペットが加わり、大のお気に入りとなりました。

犬種はジャパニーズスパニエル、いわゆるちん
有栖川宮夫妻より、1902年の夫エドワード戴冠式の際に贈られたものだそうです。

名前を「ビリー」と「パンチ」と言い、アレクサンドラが何処へ行くにも後をついて歩いていました。室内では、彼女のシルクのクッションの上で寝たりしていたようです。

(王妃と2匹の犬。日付不明)

㇄王妃の◯いスイートピー

アレクサンドラはスイートピーの花がお気に入りで、式典や晩餐会で飾らせていたそうです。


1905年、そんな王妃に因んで"クイーン・アレクサンドラ" という名前の品種のスイートピーが発表されました。(写真はこちら)
少しピンクがかった赤色をしていて、香り高い品種のようです。

㇄父の死、故郷への愛

1906年、アレクサンドラの父であるデンマーク王クリスチャン9世が崩御しました。

翌1907年、アレクサンドラと妹ダウマーはコペンハーゲン北部にあるフヴィデレ城をデンマークにおける夏の別荘として購入し、毎年9月から11月までをここで過ごしました。

(1900年頃のフヴィデレ城)

(アレクサンドラとダウマー、フヴィデレ城にて。1910年頃)


㇄夫の愛妾あいしょう

ところで、③でも少し触れましたが、夫エドワード7世の女遊びは王太子時代から相変わらずでした。

アレクサンドラは生涯を通して101人いたと言われる夫エドワード7世の愛妾とそこそこ上手くやっていましたが、1人"La Favoritaラ・ファボリータ (お気に入り)" と呼ばれた夫最愛の愛妾の事は内心苦々しく思っていました。

彼女の名はアリス・ケッペル
王室の公式行事にエドワード7世と共に参列したり、エドワード7世の寝室に入ってアレクサンドラの前でいちゃついて見せたりしていました。

(アリス・ケッペル 1890〜1900年頃)


そんなやりたい放題のエドワード7世にも、最期の時が訪れます。
彼は病床にケッペルを呼び寄せましたが、危篤状態になると彼女はアレクサンドラによって部屋から追い出されたそうです。



国王亡き後、エドワード7世とアレクサンドラの次男がジョージ5世として即位しました。

ジョージ5世は父親のようにケッペルをロイヤル待遇する事はせず、彼女は同年家族と共にイギリスを離れたのでした。

ちなみに、このアリス・ケッペルはあのチャールズ皇太子国王の後妻であるカミラ王妃(コーンウォール公爵夫人クイーン・コンソート)のひいおばあさんです。

自分の玄孫やしゃごと夫の愛人のひ孫が結婚するとは…アレクサンドラはお墓の中で何を思うのでしょう。

◆クイーンマザー時代(1910 - 1925)

夫エドワード7世が崩御し、次男ジョージ5世が即位してから80歳で亡くなるまでの時代です。


㇄アレクサンドラローズデー

1912年は、アレクサンドラがイギリスに来てから50周年という節目の年でした。

この記念行事として、彼女は「病人や貧困者の為になる事がしたい」と希望します。


そこで、障害のある女性達によって作られたシルクのバラを売り、売り上げをかねてからアレクサンドラが度々訪れていたロンドン病院に寄付するという試みがなされたのです。


現在こちらの取り組みは”アレクサンドラローズデー” として、アレクサンドラのひ孫でありエリザベス女王のいとこである、オギルヴィ令夫人アレクサンドラ王女に引き継がれています。

(1902年のアレクサンドラローズデー)

㇄第一次世界大戦と革命の中で

1914年に第一次世界大戦が起こると、以前購入したデンマークの夏の別荘に行くことはなくなりました。

そしてこの世界大戦で困窮したロシア国民が起こしたロシア革命により、仲良しの実妹ダウマー(ロシア皇太后マリア・フョードロヴナ)はクリミアに逃れ、ダウマーの息子であるニコライ2世とその家族は処刑されました。

(ニコライ2世一家が幽閉、処刑された家)

アレクサンドラは後にダウマーをイギリスに迎え入れることに成功しますが、ロシア国民から背を向けられた妹は、姉アレクサンドラのイギリスでの人気に嫉妬

最後には姉の元を離れて故郷デンマークに帰国しました。

(1875年のアレクサンドラと妹ダウマー)

(1880年のアレクサンドラと妹ダウマー)

(アレクサンドラと妹ダウマー 年代不明   Grand Ladies)

またこの動乱の時代は、若い頃から時が止まったようなアレクサンドラの美貌を奪いました。

彼女はその顔を晒すことを嫌い、晩年はヴェールを被ることが多かったそうです。

↓じゅうぶん美しいですけどね↓

(1923年・78歳頃のアレクサンドラ)

徐々に健康状態が悪化し、1925年に心臓発作を起こした後亡くなりました。80歳でした。



その美貌や明るい性格で国民から慕われたアレクサンドラ。

ファッションセンスなど見た目の華やかさが注目されましたが、先に述べたアレクサンドラローズデーで障害者や病院の救済にあたったり、王立陸軍看護隊を設立したりと慈善活動にも熱心でした。

アレクサンドラが慈善活動に取り組む様子は同時代の女性に大きな影響を与え、当時の上流・中流階級の人達の中で「慈善活動=社会的義務」という風潮が広まったのでした。



一方嫁入り後も実家との交流を続けたり、孫を甘やかすおばあちゃんだったり、王室メンバーなのにどこか自分達に似た人間らしさも感じられます。

彼女はたびたび映像化され、1999年に放送されたドラマ ”All the King’s Men” では、ハリーポッターやダウントンアビーでおなじみのマギー・スミスがアレクサンドラ役を演じました。

おまけ

Grand Ladies さんからお借りしたアレクサンドラの画像を貼ります。
その美しさを存分にご堪能ください。

(年代不明、19歳頃?
レースのショールを羽織って)

(1862年、18歳頃 
ヘアネットとパゴダスリーブの服で)


(1863年、19歳頃)



(1870年頃、26歳ぐらい)


(年代不明)


(1873年、29歳頃 妹ダウマーとペアルック)


(年代不明)


(年代不明、1870年代半ば?)


(年代不明、1870年代半ば?)


(1877年頃、33歳ぐらい)


(年代不明)


(1884年、40歳頃)


(年代不明。 
子供の頃首にできた手術跡を隠す為、
しばしばこのようなチョーカーをしていました)


(年代不明)

(1889年、45歳頃)



(1898年、54歳頃)


(1902年、58歳頃)


参考 

seedaholic.com

Alexandra Rose Charity

Wikipedia: 日本語英語

Grand Ladies


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