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災害に強い、顔の見える関係性を紡ぐ場所、「はっぴーの家ろっけん」。

株式会社Happyの代表取締役、首藤義敬さんは、長田区に生まれ、小学校3年生の時に阪神・淡路大震災を経験。その経験を経て、2017年に、「はっぴーの家ろっけん」を立ち上げた。介護付きシェアハウスと称されるその場所は、いわゆる介護施設や、老人ホームとは、一線を画す。小さな子ども、地域の学生、社会人、お年寄り、外国人。多世代で、多文化な背景を持つ人びとが、日常的にそこへ集まっていて、みんなが顔見知り。現代社会で希薄になりつつある人と人とのつながりが、そこには存在している。

震災当日

「地震ってゲームの中の話やと思ってた。神戸は自然災害もなくて、安全なまちやってみんな思ってた。」
首藤さんが被災されたのは小学校3年生の頃。当時は家族と一緒に、建物の4階に住んでいました。1月17日5時46分、家で寝ていた首藤さんは、大きな揺れに驚いて飛び起きたそうです。タンスも倒れ、家の中はぐちゃぐちゃ。その瞬間は、それが地震だということも、分からなかったといいます。
「はじめ、夢かと思った。ほんまに揺れてる。家の中ぐちゃぐちゃなってる。何があったんやろって。」
幸い、首藤さんのお家は崩れず、家族の安全が確認できました。外の様子が気になった首藤さんでしたが、外に出ると危ないと言われ、午前中は家の中にいたそうです。
「ライフラインは止まってる。テレビもつかない。どうしたらいいんやろ、どうなってるんやろ。」
午後になり、様子を見るため外に出ました。そこで首藤さんが見た光景は、まさに「地獄絵図」でした。家は倒れ、煙は上がっている。飛び交っているのは、あそこの家には何人いる、子供がいる、消防車や救急車が来ない、と叫ぶ人の声。まちの中はパニック状態だったと言います。
「ほんまに、現実じゃない。まだ夢やと思ってた。」
 その後は、お店も開いていないため、しばらくの間は救援物資を受け取りながら生活していたそうです。

失われた人のつながりをもう一度

「はっぴーの家」の取り組みのきっかけは、長田のまちの復興の過程にありました。
震災から約半年後、燃えて何もかもなくなっていた場所に、「パラール」という商店がテントで作られました。首藤さんはその時、長田のまちの賑わいを久しぶりに感じ、とても感動したそうです。そこには、復興に対するポジティブなムードがあったといいます。
しかし、2、3年がたっても、まちは仮設の建物でいっぱい。復興すると意気込んだ成果がなかなか見えず、「パラール」ができたころの熱いムードは消えていたそうです。そんななか、長田で再開発が始まりました。それを耳にした住民たちは、期待が高まりました。首藤さんも、「すごいいい感じの新長田になるんやで。もうすぐできるんやで。」と聞かされていたそうです。震災から4年経った1999年、再開発の最初のビルが完成しました。しかし、まちの盛り上がりはほとんどありませんでした。1つ、また1つとビルが建つうちに、人が分散し、まちの温度が下がっていく感覚を覚えたといいます。建物が建ち、まちの景色は綺麗になっているけれど、人のぬくもりが感じられない、そんな人のつながりがないまちづくりに、違和感があったのです。
それゆえ10代までは、再開発に対してネガティブな印象を持っていた首藤さん。しかし、最近では考えが変わったといいます。そしてここに、はっぴーの家の取り組みに繋がる重要なことがありました。「最近どう思うようになったかというと、仕方なかったんやなって。自分も同じ立場やったらそうしたかもしれへん。だから、建物の建つことが悪いんじゃなくて、人のつながりとかコミュニティっていうのを同時に作っていかないと、まちって機能しない、人の暮らしって機能しないんだなっていうのを思って。今その2つを大事にしてやってる。」
人と人との温かいつながりが再開発によって失われたのを、目の当たりにした首藤さんが身をもって感じたのは、つながりの大切さです。長田のまちの復興の様子が、首藤さんが「はっぴーの家」を作る、大きなきっかけになっていました。

「日頃から関係性のある人」が「防災」に

首藤さんは、混乱の渦のなかにあるまちで、1つの光景を目にしました。レスキューが来ない状況で、住民自らの手で瓦礫を退かし、火を消すためにバケツを運んでいたのです。とにかく必死に手伝って、何とか助けようという一心でみんなが行動していました。しかし、それでも「助けきれない」。そもそも、どこに誰が住んでいるのかも、どこから助けるべきなのかも分からなかったのです。

はっぴー1

そんな時にたどり着くのは、「日頃から関係性のある人」です。誰かを助けたいと思った時、顔が思い浮かぶ人のところになら、すぐに助けに行ける。当時、小学3年生だった首藤さんは、顔の見える関係性を作っておくことの大切さを、肌で感じていました。
「はっぴーの家」が、防災で果たす一番の役割はそこにあります。「はっぴーの家」では、様々なイベントが日常的に行われていますが、「防災」とは関係ないものがほとんどです。取材を行った週にも、アフリカ人ダンサーによるダンスイベントが開催されるとお話しされていました。「防災」を謳ったイベントよりも、楽しいイベントから生まれたポジティブで強い関係を、日頃から作ることの方が重要だという首藤さんの考えがあります。社会システムが働かなくなった時、人と人とのつながりこそが、いざという時の助けになるのです。このように、あの日震災で経験したことが、首藤さんの今の取り組みへ繋がっていました。

震災を知らない人へメッセージ

今、若い世代に託されている世界的な問題はたくさんあります。特に、2030年までに達成することを掲げている、持続的な開発目標であるSDGs。その17の項目を達成するための活動が世界的な動きとなっています。そして、日本でも、多くの学生がそれに関連する活動に参加しています。
首藤さんは、そのような問題への学生の取り組み方に対して、「どうしても世界的な問題として大きく捉えてしまいがち。でも、実はそれって目の前に全部あるから。それをちゃんとキャッチする力がすごく大事。」とおっしゃっていました。
震災という大きな災害に備えて、身近な顔の見える関係性を作ることを「はっぴーの家」で体現している首藤さんだからこそ、言葉に説得力があります。多様なニーズが存在する現代社会で、行政が対応できることには限度がある。そこで、自分ができること。まずは、目の前の人の困りごとに耳を傾けよう。心の中の本当に困っていることを探して、解決しよう。そうすれば、同じことで困っていた全く別の人も助かるかもしれない。
「「私」が困っていることって、誰かが絶対困っているはずだから。」
捉えようとするには大きすぎるような世界規模の問題を、もっと身近に考えるためのヒントを教えてくださいました。

感想・思い・学び

「はっぴーの家」を初めて訪れたとき、部屋では子どもたちのはしゃぐ声が響き、お年寄りは椅子に座ってくつろぎ、若者はPCで仕事をしていました。そこには、既存の言葉で表すことは難しい、「人が生きている」居場所がありました。
当日居合わせたスタッフの方々に、あなたにとって「はっぴーの家」は何かと問うと、複数人の口から、「家」という言葉が。その答えを聞いて、日常的に何度も顔を合わせ、首藤さんの言う「顔の見える関係」が、実際に生まれているということがすぐに伝わりました。震災を経験していない人にとっての居場所でもあるこの「家」で、被災された首藤さんの思いが自然と伝わっていることに気が付きました。
今回のインタビューを通して、震災から27年という年月が経った今でも、長い時間をかけて自分の気持ちを整理し、再解釈を続けている首藤さんの姿がとても印象的でした。震災の記憶は被災者の方の心の中に、現在進行形で生き続けていることを、改めて実感しました。首藤さんの思いや考えは、「はっぴーの家」にいる人たちの身にしみついた知恵となって、これからも次の世代へと伝えられていくことでしょう。 
1995年1月17日、阪神・淡路大震災発生から、今年で27年が経ちます。こうしている今も、時間はどんどん未来へと流れています。地震大国の日本に生きる私たちの使命は、震災の記録、被災者の方の記憶を、色褪せないように伝えること。そのために、震災を経験していない若い世代にできることは、今も生き続けている被災者の方の心の中にあるストーリーを知り、自分の言葉にして、次の世代に語り継いでいくことであると強く思いました。
「はっぴーの家」で「再現性のない時間」が生まれる瞬間が一番幸せだという首藤さん。自分のかけがえのないものを災害で失わないために、今の自分にできることは何か。この文章を読んで、大切な人と一緒に考え、防災に一歩踏み出すきっかけにしていただければ幸いです。

(文:永山 菜花)

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《首藤義敬さんプロフィール》
1985年、神戸市長田区生まれ。2008年、遊休不動産の活用事業や地元・神戸市長田区を中心とした空き家再生事業をスタート。2017年には長田区に6階建ての介護付きシェアハウス「はっぴーの家ろっけん」を創設。株式会社Happy代表取締役

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