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新聞で命を守り、新聞で記憶を遺すために、地元メディアだからこそできること。 市民の視点に立ち、市民に伝え、市民の暮らしを豊かにする神戸新聞。

まだインターネットが十分に普及しておらず、今ほど手軽に情報を手に入れることができなかった時代に発生した、阪神・淡路大震災。避難所に正確な情報を伝え、不安に陥る市民たちに強い安心感を与えたのが、神戸新聞だった。
阪神・淡路大震災で甚大な被害を受けたにもかかわらず、1日も休むことなく新聞を発行し続けた神戸新聞。自らも被災者となった神戸新聞が、あのとき伝えたかったことは何なのだろうか。
また、震災を経て神戸新聞の紙面は劇的な変化を遂げたという。これからの神戸新聞が伝えていきたいことは何なのだろうか。
今回は、震災下で神戸新聞の記者として記事を書き続けた、三好正文さんと徳永恭子さんにお話を伺った。

1日も休まずに発行し続けた

「悲しかった。とても悲しくて、記事を書き続けていた」。そう話す三好さんは、神戸新聞本社で宿直にあたっていたとき、震度7の揺れに襲われました。本社ビルは壊滅的な被害。コンピュータシステムも機能しなくなり、自社での新聞製作は不可能に。それでも神戸新聞は、災害協定を結んでいた京都新聞などの力を借り、1日も休まずに新聞を発行し続けました。
三好さんは「現実を伝えることで、全国に助けを求めるのだ」という思いで記事を書き続けていたと言います。被災地では不便な生活が続き、ライフラインの断絶や食料不足など、国からの支援が十分に行き届かないことも。つらい現実をありのまま報道して、公的機関にヘルプを要請することは、メディアの役割の1つだと言えます。これは、今のコロナ対策にも通じていることかもしれません。
しかし、 被災地の現実は厳しいものばかりというわけではありませんでした。神戸市政を担当していた三好さんは、復興計画やまちづくりなど事実として起きている「現実」 のなかから、住民に「希望」を与えるものを引き出して報道されていました。しかし、その取材をしているときも、葛藤し続けていたのだそうです。たとえば、市の都市計画に初めて住民合意が得られたとき。希望ある現実を伝えられる特ダネです。しかし、本心では納得のいっていない人や不満を持っている住民が必ず存在します。まち全体が希望を取り戻してゆくなかで、誰のどのような声をすくいとり、いつどのように発信していけばいいのか。「住民合意」の記事を書きながら、三好さんは悩んだといいます。

震災の知識で自分を守り、震災の記録で子孫を守る

三好さんが震災を知らない世代に伝えたいことは、「自分と家族、友達の命をどう守るのかということを、真剣に考えてほしい」。災害時は、知識があれば助かることも多く、なければ助からないことも多い。地震など、突発的な災害であればなおさらです。東日本大震災で「釜石の奇跡」と呼ばれ話題になった“津波てんでんこ”(津波が来たときは周囲に構わず各自バラバラに逃げろ、という意)は、その一例と言えるでしょう。日頃から正しい知識を持ち、非常事態にそれを活用できることが、自分や自分の大事な人たちを守ることに繋がります。
また三好さんは、震災を語り継ぐことの重要性も指摘しています。新聞は、読者に最新情報を伝える媒体であるとともに、後世に残す記録でもあります。終戦間もない頃、日本各地で大規模な災害が発生していたにもかかわらず、戦後復興に忙しかったためか、その時期の災害に関する記事はほとんど残っていないそうです。
「忘れ去られていく。だから日々、絶対に記録をして残していかないと」。三好さん自身も、被災地の記録を展示する写真展を開いたり、学生たちに震災教育をしたり、新聞以外でも震災を記録し、伝承する活動を行ってきました。
阪神・淡路大震災の経験を伝え続ければ、将来神戸市で地震が起こったとしても、未来の神戸市民の命を救う手助けになるかもしれません。そのために、震災を経験していない私たちもまた、伝えていく責務があるのです。

「守れ命を」。いっそう住民に寄り添う記事へ。

「いわゆる一般的な地域の記事が多かった神戸新聞。しかし震災を経て、『住民の命を守り、震災を後世に伝える報道機関』へと変わっていきました」と、神戸新聞の変化について話してくださったのは、現在は編集局次長を務める徳永恭子さんです。

神戸新聞

震災後から神戸新聞が掲げてきたテーマは、「住民の命をどう守るのか」ということ。このテーマを基軸に、医療や教育、まちづくりにまで派生して特集が組まれるようになりました。月に1度発行している「ひょうご防災新聞プラス」はその一例です。
また、取材方法もさらに住民に寄り添ったものになりました。新聞記者の仕事は、自分が経験していないことを記事にすること。第三者として客観的に報道することが大事です。しかし阪神・淡路大震災では、神戸新聞も当事者にならざるを得なかった。記者たちに、当事者にしか得られなかった感覚や意識を与えたのです。それからの神戸新聞の取材は、第三者の目線と当事者の目線の、両方の視点を交えながら取材を行うようになりました。客観的な視点から真実を追及しつつも、当事者の思いを汲み取る記事が増えていったのだそうです。

神戸新聞が、次世代に語り継ぐために

また神戸新聞は、震災を後世に伝えることにも力を注いでいます。
神戸新聞社には、現在約200名の記者がいますが、そのなかで震災当時も「記者」だった人は、現在ほぼいません。そこで神戸新聞は、震災報道を次世代に繋ぐため、社内でさまざまな取り組みをしています。
たとえば、毎年1月17日の「午前5時46分」は、若手の記者が被災地へと赴き震災関連の取材をしています。この日ばかりは姫路や丹波など神戸市以外にいる記者たち、そして入社内定者も神戸に集まります。また、定期的に発行している「ひょうご防災新聞」のコラム「遺族が語る」の取材は、できるだけ若い記者が担当します 。徳永さんは、彼らが書いた記事に毎年驚いているそうです。「『こんな人いたん!』とか『こんな話あったん!?』とか、私の知らないことがいっぱい書いてあるんです。こういう活動を続け、新たな出会いや情報をどんどん重ねていくことが、引き継いでいくということ」。
神戸新聞はこれからも、市民の命を守り、震災を継承する報道を提供してくれるでしょう。

震災を後世に伝える一員として

私が神戸新聞に取材しようと思ったきっかけは、小学生のときに偶然見た『神戸新聞の7日間』というドラマでした。原作は『神戸新聞の100日間』という神戸新聞社発行の本で、阪神・淡路大震災下での新聞製作にもがき苦しむ同社の記者たちを描いたドキュメンタリードラマです。作中のあるシーンで、瓦礫に埋もれた人を助ける現場に神戸新聞のカメラマンが居合わせ、カメラを向けると、救出作業に当たっていた市民が「写真なんか撮っとらんと早よ助けえや!」と叫ぶ場面がありました。ドラマの放送から10年以上が経ちますが、私はそのシーンが今でも忘れられません。今回、神戸新聞に話を聞きたいと申し出たのも、崩壊したまちや避難所を取材する苦悩を知りたいと思ったからでした。
ところが、三好さんのお話をうかがって、私がドラマで見ていたのは震災報道のほんの一部に過ぎなかったのだと気づかされました。焼け野原と化したまちや不便な避難所にだけでなく、復興計画というポジティブなはずの出来事にさえ、震災の苦しみが潜んでいたのです。地震が遺した傷は想像以上に幅広くたくさんあることを知ると同時に、ドラマや資料を見て震災をなんとなく分かった気になっていた自分を恥じました。お話を聞くうちに、「震災を知らない世代が、阪神・淡路大震災を後世に語り継ぐ」というプロジェクトに参加していながら、震災を伝承できる自信がなくなっていったのです。
しかし、インタビュー中に徳永さんにあることを言われて、ハッとしました。「占部さんが質問してくれる内容が、若手の記者が聞いてくることと重なる」。その言葉を聞いて、神戸新聞社でも、私たちのように震災を経験していない若い記者の皆さんが震災を語り継ごうと奮闘している、ということに気づきました。そして、記者の方々と同じように、私も震災を後世に残す一員になろう、という思いが改めて芽生えてきました。
私たちが阪神・淡路大震災を誰かに伝えようとするとき、体験していないからこその不安や責任の重さを痛感することもあると思います。ですが、たとえ知識や経験が不十分であったとしても、阪神・淡路大震災を未来に遺そうという気持ちを持っていることこそが大事なのではないでしょうか。
阪神・淡路大震災は全国的に語り継がれるべき災害のひとつですが、神戸の人々がこの震災を伝え続けなければ、いつか忘れ去られてしまいます。私には、神戸に暮らし、ここで生まれ育った若者として積極的に継承していく責任があると思っています。

(文:占部 史夏)

《神戸新聞のお二人のプロフィール》
・三好正文さん:兵庫県NIE推進協議会事務局局長兼神戸新聞NIX推進部シニアアドバイザー。阪神・淡路大震災発生当時は、神戸新聞社会部の記者。
・徳永恭子さん:神戸新聞編集局次長。阪神・淡路大震災発生当時は、神戸新聞阪神総局の記者。

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