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母の4年ぶりの桜

母が、4年ぶりに桜を見た。

というと語弊があるかもしれない。もちろん毎年目に入ってはいた。ただこの春、母は4年ぶりに、自ら桜を見に行ったのだ。近所の桜並木を、ひとりと、心の中の一匹で。

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桜のうつくしいこの季節は、私たち家族にとってすこし切ないものだ。

2018年の3月25日、愛犬のラブラドールレトリバー、ハナが亡くなった。14歳の大往生だった。

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私が10歳のころ家にきたハナ。私と弟にとって、一緒に育ったハナは妹そのものだった。とても賢い犬で、いつも家族を見つめ、家の中でいちばん優しさを必要としている人の近くにいてくれた。その様子は頼れる姉のようでもあった。

ポケモンのマリルのぬいぐるみがお気に入りで、遊びすぎて破れると、必ず私のもとへ申し訳なさそうに持ってきた。縫ってあげるあいだお利口に座って待っているハナの、あの愛らしい姿が、私は大好きだ。

だけど家族の中でハナをいちばん大好きだったのは、母だったと思う。そしてハナがいちばん大好きなのも、絶対に母だった。

犬を飼うことを最後まで渋っていた母は、結局誰よりもハナのお世話をして、誰よりもハナと一緒に時間を過ごした。犬は自分を大切にしてくれる人のことがよく分かるし、同じように大切にすることができる動物だ。ハナは母がトイレに行けば必ずドアの前で待っていたし、母が泣き真似をするだけで慌てて慰めにきたし、母がキッチンで料理をするときには足もとに寝そべって動かなかった。(これだけは母もちょっと邪魔だったようだけど、私は邪魔そうにする母の様子とそれでも動かないハナを見るのが可笑しくて好きだった)

数ある犬のお世話に中で母のもっともお気に入りだったのは、散歩だ。毎日の散歩はただの日課ではなく、母の心の栄養だったように思う。桜、新緑、紅葉、雪景色。四季折々の散歩道をハナが嬉しそうに歩く様子を、母は毎年、毎年、写真に納めた。それが母の楽しみでもあった。

黒ラブのハナ。艶々と美しい真っ黒の毛に、年々白髪が混じっていく。母の撮り溜めた写真を見返すと老けたなぁと思うけど、それでも元気いっぱいに散歩していた。だからそれは、私たちにとって突然のことだった。2018年の桜の頃、ハナの容態が悪くなったのだ。寿命だった。

もうすぐかもしれない、と私のもとに連絡が来たのは、3月23日の金曜日。私は翌土曜日の仕事を終え、その夜急いで実家に向かった。大学生としてすでに家を出ていた弟も、春休みで帰ってきている。その日はそれぞれ独立し始めた家族が揃う、唯一のタイミングだった。

その日の再会は、いつもどおり。全員が無言のうちに分かっていたけれど、誰も「ハナ死んじゃうのかな」なんて言わなかった。撫でて、おやすみを言って、眠った。

しかし翌朝は雰囲気が違った。私たちは皆いつもよりすこし早く目が覚めて、食事もそこそこに、家族全員で自然とハナを囲んだ。母がハナの顔の一番近くで。それから、父、弟、私。ハナはもう起きられないけれど。首をもたげて全員の顔を順番に確認した。「今日はみんないるねぇ、不思議だね」と母が言葉をかけていたことを覚えている。ハナはその声に応えるように、また安心しきった顔で、母の膝に頭を預けていた。

音楽にクライマックスの予感がするように、ああいう瞬間って、わかるものなのだな。だから私たちはその瞬間まで、全員で声をかけ続けた。「ありがとう」と「大好きだよ」、そして、もうすこし頑張れじゃなくて「よく頑張ったね」と。

私はハナのからだに手を置いていたので、その瞬間がわかった。とくん、とくんと動いていた心臓が、家族の声のなか次第に小さくなって、そして、止まった。

父を中心に皆が抱き合って、泣いた。家族の顔を見ながら私は、ハナは最期まで賢かったな、と思った。全員に看取られる日を選んで、いったのだ。この日より前なら私は間に合わなかったし、後だったら、母も父も仕事で不在だった。唯一家族が揃う日、ハナは全員の顔を確認して、旅立った。

それから全員で火葬へ行った帰り道。春の日曜の、穏やかな夕暮れ。後部座席でハナのお骨を抱えながら、満開の桜を窓の向こうに見た気がするが、その様子を、私はよく思い出すことができない。

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この話を書く気になったのは、最近母が電話で、こんなことを言ったからだ。

「ママね、思い出がいっぱいで、ずっと行けなかったんだけど、ハナちゃんとよくお散歩しながら見ていた桜を見に行けた。すごく、綺麗だった」

ハナの亡き後、典型的なペットロスだった母。直後は特に塞ぎ込む日が続き、ハナの話題になると目に涙を浮かべていた。最近はまだ良くなったように思っていたが、それでも自分からハナのことを口にすることはなかった。

もう3年、されど3年。母は春を迎えるたび、一緒に見られなかった最後の桜を思い出し、悲しい気持ちでいたのだ。散歩道の桜は、2017年で止まってしまっている。

そんな母が、自分からハナの話をしてくれた。電話越しにも泣きそうなのが分かったけれど、それでも話をしてくれた。

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その後母から送られてきた写真には、変わらない桜が写っていた。ハナがいた頃と、ハナがいない今。桜は同じように、うつくしく咲いている。

その写真を見て、私は思った。ハナはきっと、今でも私たちのそばにいる。そして相変わらず誰よりも母を好きで、行く先々に付いて回っているに違いない。

この春こそ、母が自分からハナの話をできるようになるといい。実は私たちは、心のどこかでそう願っていた。

この桜は、ハナが母に見せてくれたのかもしれない。もうそろそろ大丈夫だよ、元気を出してと、ハナのいない写真の中で、でも確かにそこから、ハナが話しかけてくれているような気がした。

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そして私もまた、家の近所を散歩してみた。

思えば母に限らず、私もあの春から、積極的に桜を見ていなかった。きっと悲しくなってしまうから、無意識に避けていたのだ。

しばらく歩くと、控えめに桜の咲いた公園で、ちいさな姉弟と、ちいさな犬が、走り回っていた。私たちもあんなふうだったなと思い出し、だけどもう涙だけじゃなくて、笑顔がこぼれた。

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私たち家族は、この春のゆるやかな変化をきっかけに、また歩き出せるだろう。あたらしい春は、またあたらしい季節を迎える。

2018年4月11日
ハナが私たちの家族になった記念日に


あとがき
2024年7月。あれからまた3年が経った。両親は相変わらず二人きりで住んでいるけど、あちこち旅行に行ったりと楽しそう。このあいだ母に会ったら、これまでキャラクターのイラストしか設定されたことのない母のスマホの待ち受け画面が、ハナの写真だった。「いいね」と言うと、「いいでしょ」と母は自慢そうに、穏やかな笑顔を見せた。

このエッセイは2024年7月に加筆・修正をおこないました。

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