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ぼくのほそ道

 ぼくが子供のころ、小学校の図書室で偶然、松尾芭蕉の「おくのほそ道」を読んだことがある。
 と言っても、ぼくは今も子供だ。ぼくは小学校六年生で、それを読んだのはほんの二年前の話だ。古語とか昔の言葉はよく分からないけれど、本には今の言葉で分かりやすく訳がつけられていたので、ぼくでも読むことができた。
 図書室に置いてある「おくのほそ道」の本は、ぼくの他に借りていた人が一年で二人しかいなかったのが印象に残っている。
 ぼくが読んだ限りでは、松尾芭蕉は俳句で有名だが一方で、旅人として、東京の江戸を出発し、栃木、福島と弟子と句を残しながら歩き、ぼくの地元である宮城では素晴らしい体験をしたようだ。特に有名な句に「松島や ああ松島や  松島や」という句があるが、実はこれ、全くの作り物で松尾芭蕉が作った句ではないらしい。ただの、観光PR用に作られた駄作なんだ。周りの友だち、大人もお父さんお母さんさえ知らないことだ。
 実際に松島で松尾芭蕉が作った句は誰にも分からず、唯一弟子が読んだ「松島や  鶴に身を借れ  ほととぎす」という句は分かっているけれど、どちらも、松島の美しさに感動した句なんだって。実はぼくは、松島が、そんなにすごい場所とは思わない。ときどき、お父さんと松島に遊びに行くことはあるけれど、いっつも、カキの食べ放題ができるカキ小屋へ行くだけだ。焼きカキが食べ放題で、ぼくは嫌いではないけれど、そこまで美味しいとも思わなかった。お父さんは次々とカキを口に放っていたけれど。きっと、カキ小屋で出されるカキは、松島産でもなんでもなく、中国産なんじゃないかと密かに思っている。
 松尾芭蕉は、宮城でゆっくりした後、岩手の平泉、また宮城に戻り、そして山形、秋田と旅を続け、新潟、富山、石川、福井と日本海側の地をなぞり、そして終着点である、岐阜で旅を終えたけれど、実際、松尾芭蕉にとっては次の旅の始まりでしかなかったことがぼくには衝撃だった。
 松尾芭蕉は旅を終えた後、高熱を発して一六九四年に死んでしまった。松尾芭蕉の次の旅がどんな旅になるはずだったのかは、もちろんぼくには分からない。
 松尾芭蕉が死んでから今年で三百二十七年になる。ぼくの周りでは誰も松尾芭蕉の名前を出す人なんていないけれど、ぼくは彼の生き方が好きだ。ぼくは俳句とか「おもむきある」ものは何も作れないけれど「ぼくのほそ道」なら持っている。いつもお母さんに「あなた、どこほっつき歩いているの」とよく叱られるけれど、少しずつぼくなりの道を増やしているということを、大人たちは誰も気づいていない。それは、ぼくだけの道。
 たとえ誰に知られなくてもいい。松尾芭蕉が果たせなかった次の旅を、ぼくが代わりに続けていく。

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