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20話 シュークリームとロールケーキ

その日、わたしはある日のことを思い出していた。シュークリームを二つ買ってきた日のことだ。
父とわたしの分。父は喜ぶだろうか、そう思って買って帰ってきた。しかし、そのシュークリームは、結局渡すことができなかった。買ってきたということも、誰も知らない。
父に話しかけることができなかったのか、口喧嘩をしてしまったのか、それも遠い記憶の片隅に消えてしまったが、とにかくわたしは二つシュークリームを食べた。全くおいしくなかったことだけ覚えている。

大学生から社会人4年目までの家庭で過ごした記憶の色は、灰色だ。どうやって過ごしていたんだろうか。記憶がすぽっと抜けている。投げやりと諦めで塗りつぶした日々。

社会人5年目の春、一人暮らしをすると父に告げた日。わたしは号泣して全くうまく話すことができなかった。ただ泣いていただけだった。

迷惑かけたくない。心配させたくない。

わたしはそういった思いを人一倍強く持っている。何かを決めるとき、頭の中で、まず考えるのはそこだった。迷惑かけるんじゃないだろうか。心配させるんじゃないだろうか。
だから、一人暮らしも、転職するのも、本当に身が裂ける思いだった。それでも、自分の思いを殺して日々を過ごし続けることはできなかった。そのままだったら、わたしは本当にこころを閉ざして生きていたことになっていたと思う。

久しぶりに戻った実家で、シュークリームのことを思い出しながら、父に移住することや仕事のことについて話をした。
今回の移住についても、また、迷惑かけたくない、心配させたくないという自分の気持ちが顔をのぞかせる。
深呼吸をした。大丈夫。どうであっても、自分を守ること。

父と弟と私とで、いっしょに鍋を囲んで話をした。大学生から社会人4年目まで、こうやって暮らしていたはずなのに、灰色だった日々。
普通に会話ができる未来をどう想像できただろう。
父とわたしとは、価値観や大事にしていることが全然違う。わたしはもうわかってほしい、認めてほしいとは思っていなかった。けれど、自分が大事にしたいことを伝える。自分が大事にしたいことを大事にする、と。

わかってもらえたかどうかは、わからない。それでも、受け入れてくれたのだと思えた。

ごはんを食べた後、「コーヒー飲むか?」と聞かれ、「ああ、うん」と答える。

「ロールケーキ買ってきてるねん」と。

3人でロールケーキを分けて、コーヒーを飲みながら食べる。

「生クリーム苦手やろうから、思い出して、フルーツ多めなの買ってん」ぽつりと父はつぶやいた。

わたしはまだ、「ありがとう」を感情を込めて言えないけれど、「ありがとう」と伝えられた。

渡せなかったシュークリームと、みんなで食べたロールケーキ。

わたしは見えないたくさんの愛情に支えられて生きているんだと、自分の思いを大切にして生きるようになってから、強く感じられるようになった。

今日の日は、思い出したときには何色で思い出すのだろうか。きっと灰色ではないはずだ。あたたかい色がついているような気がした。

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