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第50回・するが先か、されるが先か

数回に渡り、ビンを『集める』話を書いたので、ちょうど良いから、もうひとつ集める話を。

以前、職場の上司に「信用は大事。可能な限り集めろ。それが人間として自分を大きくさせ、より人生の幸せに繋がる」と言われたことがある。

今まで、多くの職場で、同じような『人生の教訓』的なことを言う人がいた。
こんな大量生産されたような、それっぽい言葉を、かなりのドヤ顔で伝えてくるのだが、誰ひとり尊敬も憧れることも出来なかったので、私にとっては、その言葉には何の力も宿っていなかった。

ある日、あまりにも周りの人間から粗末にされ、信用も出来なかったので、正直に「出来るものなら信用はしたいが、全く信用が出来ない」と伝えたことがある。
その時に、上司から返ってきた言葉は、「自分のことを信用してくれていない人間を、誰が信用出来ると思う?お前が信用しない限り、信用なんかしてもらえない。だから、まずはお前が信用の気持ちを表すべき」だった。

その返答に、呆れてしまった。

そちらの言動や行動が、全く信用に値しないから、信用が出来ないと伝えているにも関わらず、それらを改めずに、まずはこちらが折れろと言うのだ。

信用って、無理矢理するモノだろうか?
私は違うと思う。
さらに言えば、私は別にそんな人間たちに、信用されたいとも願ってもいないのだ。

「許容範囲をもっと広く持て」とも言われた。
信用って、妥協してするモノだろうか?
私は、それも違うと思う。

これだけの多くの人間が、世の中には存在しているので、自分にとって関われる人物、交われる関係、相性の良い存在、それらはあって当然だと思うし、その逆も然りだ。

どうしたって感覚の共有が叶わない組み合わせもあると思う。
自分にとっては『そんな人間』からの信用なんて、あったとしても無いと同じだ。

『お金の切れ目は縁の切れ目』なんて言葉もあるが、『信用』という目に見えないモノが、お金を生み出す商品になっている場合だってある。

社会的信用とは?
信用とはお金で計れるモノなのだろうか?
ならばお金を持っている人間が、信用に値する人間なのだろうか?

私は、どれだけ信用されるかではなく、どれだけ信用出来るかだと思っている。

相手がどう思っていようと、尊敬が出来、憧れ、頼りに出来る人間と出会えるか、関われるか、交われるかが重要であり、それが人間として自分を成長させ、より幸せに向かわせるのではないだろうか。

自分に自信が無い、大して実力も無い、センスもない、胡散臭い人間ほど、「自分のことを信用してくれ」と言う。

無理矢理着させられた服ほど、着心地の悪いモノはない。
無理矢理食べさせられたモノほど不味いモノはない。
誰にだって、選べる自由と権利はある。

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