大学生とアカデミア


(これは、私が以前Facebookに投稿した記事のコピーです。)

ぼちぼち、予備校の生徒たちの卒業シーズンになります。

最後の授業では、講師が受験生に激励のメッセージを伝える慣習がありますが、僕は毎年、この本を勧めることで受験生へのメッセージの代わりとしています。僕が伝えたいことは、この本に集約されています。

著者の吉見俊哉先生は東京大学の副学長を務められ、社会学のご専門でしたが、昨年退職なされました。安田講堂から無観客配信された「最終講義」のアーカイブも拝見しましたが、吉見先生の力強い語りは健在でした。

受験指導は言うまでもなく「受験に合格させる」ことを第一の使命として担っているわけで、大学進学を望む生徒に対して、立場上は四の五の言わず受験勉強をするよう指導しなければなりません。

しかしながら、講師ではなく教育学徒としての僕からは、そもそも「なぜ大学に行くのか?」あるいは「なぜ学ぶのか?」ということを、教え子のみんなには、どこかのタイミングで一度よく考えてみてほしいと思っています。

受験指導や自身の大学体験の中で、大学受験で疲弊し、大学での学びの意欲やビジョンを見失ってしまっている人をたくさん見てきましたが、その背景には「勉強とは、大学に入るためにするものだ」という高校生の学習観の存在を否定できません。大学生になった途端に学びの目的を見失ってしまうからです。本来的には、大学とは「就職で有利になるため」とか「自由な時間を得るため」とかではなく、「興味のある学問を学ぶため」に進学したい人が集まる場であり、大学側も(タテマエでは)、そのような学生が進学してきている前提で話を進めてきます。だからこそ、「学ぶことそれ自体が目的」という価値付けができていないと、大学で学問するということは、かなりしんどいのではないかと思います。

これは極端な話ですが、自由な時間が欲しいのなら、大学など行かずにフリーターをして生活費を稼いで、遊ぶなり、旅に出るなり、ボランティア活動をするなりできればいいなと思います。学費もかからないし、おそらく本人にとっても中途半端に大学に通うよりよほど多くの学びを吸収できると思います。それで満足いくまで好き放題してから、しっかり就職する、あるいは大学に行くなどすればよいと思うのですが、しかしそれを許さないのが現代の日本の新卒至上主義の文化です。ストレートで大学を卒業し、形だけでもしっかり大学に通っているということが必要である、という不安が高校生の首を絞めている実情があるように思います。

大学入試改革が進みつつあるとはいえ、試験で点が取れれば入学できる仕組みは未だに主流ですから、大学側は受験生の進学の動機までを問うてはいません。しかし「大学」というある種特殊な場がどのような性質をもつのか、社会的にどのような立ち位置なのかを客観的にまず知った上で、改めて「なぜ大学に通うのか」を、"自分なりに"考えてみてほしいなと思います。僕があまり話してしまうと、それこそ価値観の押し付けのようになってしまうので。

生徒さんにとって、実りある学びの実現する大学生活になることを願って止みません。

ところで、僕が今書いている本では「代返」という大学文化についてかなり言及していますが、これは「代返」が単なる「大学生の怠惰の象徴」というだけでなく、大学生のアカデミア観、そして教育評価の在り方など、実に様々な問題を示唆しているものだと考えているからです。これについては、またの機会に。

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