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【掌編】 ズルはダメだよ

「ズルはダメだよ」

先日、同僚の茉莉から借りた漫画で「ズルはだめだよ」というセリフがあったことをふと思い出した。サダキヨと言う少年はいつもお面をつけていて、小学校時代のケンジくんに言うのだ「ズルはダメだよ」と。

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金曜日、朝6時半。東京の下町にある1DKの狭いキッチンに立って、横溝さんのためにお弁当を作っている。半袖シャツの上にエプロンはつけない。長いストレートの髪を頭の高い部分できゅっと結んだ。

わたしの暮らすマンションはキッチンに小さい出窓がついていて、窓からは近くの公園の緑が見える。時々ツピーツピーと小鳥の鳴き声が愛らしく響いている。手元を照らす蛍光灯がときどきチカチカと点滅するのでもう時期電気が切れるかもしれない。

食べ盛りの彼のために昨夜考えたボリューム満点のメニューにこれから挑む。唐揚げにエビフライ、一口ハンバーグ、ポテトサラダに昨日漬けたセロリとにんじんのピクルス。だし巻卵、おにぎり各種。

さほど手の込んだ料理ではないものの、こまごまと作っていると果てしなく時間がかかる気になってくる。例えば殼付エビの綿抜き処理、例えばたまねぎのみじん切り。ちょっとした作業の連続で時間をかけて作ってもきっと食べ盛りの彼の胃袋にはあっという間に飲まれてしまうかもしれない。料理が舌に合えば、の話だけれども。

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まだほんのりたまねぎの匂いがついた手を液体石鹸でよく洗い、水を切ってタオルで拭っているときに先日の茉莉との会話を思い出してしまった。

「さっちゃんさー、横溝さんいいと思わない? 仕事できるしさ、気遣いも抜群でしょ? 小さい会社ながらも次期社長だし、聞き上手だしさあ。話してると何でもするする自分のこと話しちゃうんだよねえ」

茉莉がにやにやしながら横溝さんの話をしているので、彼のどんなところが良いかという話を聞きながらへえ、とかふうん、とかそれは良いねとか適当に相槌を打っていたのが1週間前の出来事だ。横溝さんのことならわたしの方が彼女より好きでいる変な自信がある。時々横溝さんはうっかりしてわたしの下の名前で呼んでしまうこともあるし。目が合うとにっこり笑ってくれるし。LINEで軽い相談事も受けることがあるし……。いやすべて思い込みかもしれないけれど。
今年初めて蚊に腕を刺されてぽりぽりと腕を掻きながら、彼女の話は上の空で痒み止めは部屋の棚の中にあったかな、なんてことをばかりを思い浮かべていた。

茉莉のことは同僚ながらどちらかというと苦手なタイプだ。彼女はジャスミンティーのペットボトルに口をつけながら「ジャスミンって茉莉花って言うんだよ。だから、ジャスミンティーはわたしのお茶」と悦に浸りながら飲んでいた時に「ああ、この人とは無理」と心底感じて、それからわたしの心のなかで一定の距離を置いている。このエピソードのほかにも茉莉からは常々ナルシズムや自慢のエキスが厚ぼったくだらしない唇からたらたらと漏れ、そのたびに「ああ無理」という気持ちが押し寄せてくる。

この手のタイプは下手に拒絶すると、別の人間に悪口を平気で広め自分の地位を固めるタイプなので付かず離れずがベストな距離だと理解している。その割に漫画の貸し借りなんかは利害が一致しているので茉莉から青年漫画を借りて、代わりに持っている少女漫画を貸したりもしている。

わたしと茉莉はちいさな靴製造業及び卸業社の事務担当として正社員として雇われている。横溝さんは靴屋の社長の息子であり、外回り営業が主な業務だ。彼は次期社長候補だからということを意識してかは測りかねるが周囲への気遣いに手を抜かない。パートのおばさんにも、ベテラン靴製造社員にも対等にいつも笑顔で調子はどうですか? とよく話かけている。

前職の運送業の営業事務を退職した後、この小さな小さな世界でわたしはひっそりと生きている。34歳という年齢でも正社員として受け入れてくれたこの靴屋に感謝と愛着を日々感じている。

3日前。ゲリラ豪雨さながらの大雨が降った。バケツをひっくり返したような雨粒が周囲の木々や住宅の屋根を打ち付けた。屋内にいても嵐のような大風がごうごうと吹き付けているのを感じた。

その日、社員はみんな撤退してしまってわたしだけがエクセルと向き合って書類のデータ入力していた。ガラス戸にバチバチと雨粒があたってはいくつもの雨筋ができていた。しばらくデータ入力に集中していると玄関の方からかちゃりと鍵が開く音がして、振り返ると横溝さんががびしょ濡れのままどうも、と片手をあげた。黒々とした髪が雨に濡れてワックスも落ちて坊ちゃん刈りのように見える。

「横溝さんこんな酷い天気の中で営業行ってたんですか? てっきり直帰したかと思ってました」

驚きながら伝えると

「雨宮さんこそこんな嵐の中でまだ仕事やってたんですか?」

横溝さんは驚くどころかくしゃくしゃの笑顔で返答してきた。彼は笑うと顔がくしゃっと潰れて不思議となんとなくこちら側の気持ちを許したくなってしまう。人柄の良さが笑顔からじんわりと滲み出ているのだ。これはわたしだけではなく、もちろん茉莉だけでもなく、職場の人間全員が思っていることかもしれない。

全身ずぶ濡れの彼を放って置くことができず、小走りで事務所から製造工場に続くドアを開け、戸棚からタオルを何枚か取り出して戻り手渡した。すみませんありがとうございます、と何度も頭を下げてからスーツを椅子にかけ、ごしごしと滴がしたたる髪を拭った。

「はあ、おかげ様でちょっとライフが回復しました。ねえ、雨宮さんちょっと火遊びしません?」

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火遊び? なんのこっちゃと疑問に感じていると、横溝さんはわたしの手首を柔らかに掴んで作業場の方へと向かった。まだシャツが濡れてますと言えば大丈夫これから乾きますと嬉々としている。

作業場に入り、壁に備え付けの60センチ四方ほどの銀の扉を開けて何やらボタンを操作している。何をしているのか訊ねると「これから火遊びができるようにズルをするんです」とだけ言って、小学生のように笑っていた。

「ズル?」と聞けば
「そうです、今からズルをするんです」と言い、右手でちょいちょいと手招きをされるままロッカー室まで彼のあとを付いて行った。

雑な字で「横溝(充)」と書かれたロッカーの扉を開けると、まるでサンタクロースが持っているような大きな白い布の袋を取り出した。

作業場の比較的広い場所に戻ると彼は次々と袋から物を取り出していく。金属の棒に網がかかったもの、小鍋、折り畳み椅子、チャッカマン、ワイヤーで括られた薪木……。


「これってキャンプ道具かなんかですか……?」
「そんなようなもんですね。焚き火道具です」
「さすがに会社で火気はまずいんじゃないんですかね」
「だからさっきズルして火災報知器のアラート切ったんですよ」

このしたり顔は常習犯に違いあるまい。にこにこ顔で彼はちょっと待ってくださいと言い残すとしばらくしてから冷蔵庫内の牛乳とバンボーデンの缶、マグカップなどを抱えて返ってきた。

「火事になっても知りませんよ」
「好きな人の前で失敗なんかしませんから大丈夫です」

しれっと、今しれっと何か言われた気がしないでもない。でももう一度今のセリフ言ってくれませんか、とは中々言えない。言えないもんなんだな、人間。なんだか両耳がじんわりと熱いんだけれどもそんなこともやはり言えない。

横溝さんは焚き火台を組み立て、枝木をセットしてちぎって丸めた新聞紙に火をつけた。ちちち、と音がして小さく火が灯る。

続いて小鍋にバンボーデンのココアとポケットからだしたシュガースティックを入れ少量の牛乳を注いでスプーンでくるくるとかき混ぜる。全体的に混ざったところで牛乳を注いで、焚き火台の網の上にそっと小鍋を載せた。

「火のはぜる音って聞いていると落ち着きませんか? 俺スマホにも焚き火のアプリとか環境音のとかめっちゃ入れてるんですよ」
「それが高じて職場でリアル焚き火してたら社長に怒られませんか?」 
呆れながらすかさず言うと
「はは、この場所ももともとは社長から教えてもらったから大丈夫ですよ。焚き火するなら穴場があるぞって言われて。それにほら、消化器もありますからいざってときは大丈夫」
さらに呆れる返答だったのでそれ以上はやり合わなかった。

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焚き火台の上でゆらゆらと優しい炎が揺れては時折、ぱきりとはぜる音がする。横溝さんはうちわで仰ぎながら少しずつ細い薪を加えていく。

「俺ね、きしょいって言われるかもしれないけど雨宮さんのお弁当を見るのが好きで。いろどりとかすごい綺麗だし、栄養のバランスもいいなっていつもはたから眺めているんです」
「それは確かにちょっときしょいですね」
「あ、やっぱり? へへ」
「覗いていいねって思ったら声かけてくださいよ、心の中でファボされても通知来てないですから」
その時、彼は目をまるっとさせて
「そう、それ、そういう雨宮さんのちょっとした表現とかもすごく好きで。表現だけじゃなくてちゃんと仕事する姿勢とか、服が意外とかわいいとことか……」
炎のなかで牛乳が泡立ち始めた。横溝さん、そろそろ沸騰しそうですよ。彼は頷くとミトンで小鍋を掴んで、ふたつのマグカップにそれぞれココアを注いだ。

「なんだったら付き合っちゃったらいいと思うんですよね、俺的には」
サンタの袋からマシマロを出してひとつずつマグカップに浮かべる。なんだったら付き合っちゃったらいい、なんて、嬉しいけどかなりライトな言い回しだし、振られてもあんまり傷つかない言葉を選んでる気がする。ズルイ。


「……ズルはダメだよ」
そのときほろりと、あの漫画のサダキヨの言葉が口からこぼれてしまった。横溝さんはキョトンとしながら
「ズルですか……?俺的には真っ向勝負したつもりなんだけどな……。ちょっと言葉が弱かった……かなあ……俺としては雨宮さんに好意を持っているんですが」
と口に手を当て自分のどこがいけなかったのかを探っている。

ズル。あまり好きでもない茉莉から横溝さんが好きだと言われたことを思い出す。茉莉が横溝さんを好きだと知ってしまったら、わたしは彼と良い仲になってはいけないのだろうか。早い者勝ち。言ったもん勝ち。そういうのが大人のルールなのだろうか。

「漫画でねズルはだめだよ、っていうセリフがあってね。なんだか思い出しちゃったの」

キャンプ用の椅子に座って火を見ながらもう一度呟く。思わずため口になってしまったけど、訂正するのもあれなのでそのままにしておいた。マグカップに口をつけるとマシマロがやわらく溶け、舌全体が甘くなる。

「へえ俺は、ズルくらいしますけどね」

わたしのちいさな声をかき消すように横溝さんがはっきりと言った。

「犯罪は確かにダメだけど、ちょっとしたズルくらい俺ならやりますよ。さっきだって火災報知器切るズルしたでしょ? それにみんなカンニングくらいなら今までしてきたでしょ? 大人になってからは自分のやりたいことを通したいなら少しのズルはしょうがないと思ってますよ。全部がクリーンな状態っていうのはなかなか難しいし、それが本当にズルかどうかの判断がどうかだって周りの人間にはできないものかもしれないし」

彼はぽつぽつとボタンを外すように話す。説得するわけでも説教するわけでもなく、自分ならどうかという目線で彼はいつも話してくれる。ふと彼がじっとわたしの瞳を覗き込みながら

「雨宮さんがひっかかってるズルってなんですか」

とうとう彼が真っ直ぐに確信をつく質問をした。まさか茉莉のことは言えない。彼女のことは好きではないけれどだからと言って彼女の気持ちをわたしが伝えていいものではまったくない。

「ごめんなさい、それはちょっと言えない。だけど、その答えの代わりというか、今度横溝さんのためにお弁当作らせてもらえないかな。それで、わたしの気持ちを汲んで欲しい。伝わるように一生懸命作るから」

気持ちを汲んで欲しい、なんてことをいう人間は面倒臭い人間の世界ランカーに匹敵する。察して欲しい、気持ちを汲んで欲しい、言わなくてもわかって欲しい。まさか自分が口からついてそんな言葉が出るとは思わなかった。さすがに引かれたかもしれないとひやひやしていたら横溝さんはココアを飲み干して、今度は枝にマシマロを刺して焚き火に当てている。

「おお、思わぬところで雨宮さんのお弁当が食べられる流れになって俺うれしいですよ。美味しかったらLINEでファボいっぱいつけますから。リツイートはしませんのでご安心を」とにっこりする彼の鼻の下にココアの泡が付いていたので、指でそっと拭ってあげた。

心の底にもやもやと溜まっている感情を、正しく相手に言葉で伝えずに逃げて自分の得意とすることを代理にすることもズルだとしたら、わたしも立派なズルい人間だ。だけれども、今のわたしにはそういうズルでしか世の中を渡っていくことができない。
あの日、焚き火の前ではい、とだけ言えばすんなりと上手く言った気もする。だけど、彼がちゃんと自分なりの球を投げてくれたのだから、わたしもわたしが投げられる球を投げて受け止めて欲しい、と欲が出たのた。

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今朝はいつもより1時間以上早起きして、精一杯心を込めてお弁当を作った。大きめのワッパを用意して、唐揚げとハンバーグとエビフライ、だし巻き卵。ポテトサラダとにんじん、セロリのピクルス、高菜としゃけのおにぎり。ズルも手抜きも一切してない。今のわたしができる真っ向勝負で、どうか彼からいいねを貰えますように。







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