わたしの保健室
保健室が好き。
中三からずっと好き。
約8年間、保健室の先生を目指してきた。
高校の頃、1年生の春からすでに「千葉大学教育学部養護教諭養成課程」が第一志望だった。
4年後、無事に合格した。本当にうれしくて、興奮しすぎて4日間全く眠れなかった。
でも入学してから変わってしまった。
意識が低く、堕落していたわけではない。
授業は欠席することもあったけど、授業以外でもたくさん保健室に関係する本を読み、考え、バイトも【教育系】ばかりやっていた。
だけど、だんだんずれていく。
興味は強まるのに、どんどん養護教諭になりたい気持ちが薄れていく。
大学3年生の途中からは、もうほとんど「養護教諭になりたい気持ち」は消えていた。たまには「やっぱりなりたい!」になるけれど、「やっぱり」の頻度は確実に少なくなっていった。
明確な理由は分からない。
当時は「養護教諭のアイデンティティや専門性が分からないから」「教育界に私の性格が向いていないから」「周りの学生より人間性が劣っているから」「学校嫌い」とか、色々な理由があった。どれも本物。嘘じゃない。
でも、今はもう、明確な理由は分からない。
複合的。自分が進化成長したせいで養護教諭をやめたのか。
それとも、退化したせいで養護教諭をやめたのか。分からない。
もう、色々なものがずれてしまった。
性格、考え、環境、夢、時間、出会った人、子どもとのかかわり…
すべてがひとつひとつ微妙にズレて、もう修復不可能なんだと思う。
【死因:多臓器不全】みたいな。複合的すぎる。
8年間目指した養護教諭とさよならするのはまだ涙が出るほど寂しいことだけど、きっと私にはほかに居場所がある。やるべきこともある。
大切なものって、それ自体に価値があると思いがち。私でいう「保健室」。
だけど、大切なもの・大切だったものを失った後に残る「空間」にこそ価値がある時も多いと思う。
保健室が私の心の80%を占めていたと仮定する。
保健室を手放した今、私の心には80%分の空きがある。
なんでも吸収できるね。新しいこと始められる。
大切なものは、失くすことに意味がある時もある。
難しいね。よく分からん。結局養護教諭になるかもわからん。未知。未知って自由。
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