キャリアという言葉も教育という言葉も嫌い

ワークキャリアにいて思うのが、そもそもわたしは「キャリア」や「教育」という言葉にかなり嫌悪感があるなーということ。言葉にかなり影響をうける性質なので、キャリアや教育という言葉を聞くだけでも気分が悪くなることがある。

キャリアには、働け!良くなれ!右肩上がりになれ!というメッセージを感じる。

教育には、学校にいけ!正しくあれ!明るくあれ!上の人間の言うことを聞け!そう言わなくても、暗黙の了解を理解して正しく健全に生きろ!大人が作ったものに従え!自由と言いつつ大人が作った道の中での自由であれ!俺ら大人の範囲の中で生きろ!というメッセージを感じる。

だから、キャリアも教育も、言葉にたいしてアレルギーがある。

わたしの頭のなかの世界は、キャリアも教育もなくて、ただ自然状態なところに人間がすんでるだけのイメージ。だから、キャリアとか教育とか制度っぽいもので、弱者や労働者として区切られる感じが嫌だ。

ただの動物でありたい。より良くするとか、改善するとか、進化するとか、いらない。あるとしたら、循環したい、自然な方向に「戻りたい」という感じ。

前に進むこと、よりよくなろうとすること自体に疑問があるのかもしれない。

まぁ、自分が最低な教育環境にいたことや、キャリアに触れる経験がなかったことが、大きな原因なんだろうね。教育を受けた自覚すらない。くそな教育にたいして、自分を守りながら、なんとか生きてきただけな感覚。

学生時代にまわりにいた大人の人たちには、わたしを教育の環境にいさせたと思わないでほしいな。くそみたいな環境の中で、自分を守りながら生きてきたことだけは、少しの自信になっている。

だからってくそな教育環境を変えようとは思わない。そんなたいそうな野望はない。ただ、無理だなと思った人はそこから逃げようぜって気持ちがあるだけ。うちらだけの、穴場みたいな、快適な場所で小さく幸せを見つけようぜって気持ち。

大きなものやくそな環境が存在しててくれるから、うちらだけの穴場も存在してくれる。仮想敵みたいなものを敵としながら、「じゃない方」「外れたもの」「裏路地」として、社会の隙間みたいな、とにかく隙間みたいなところに生存していたい。

学校のなかでの逃げ場は、保健室だった。

そんな感じで、あくまでも逃げ場でたむろしてる、よく分からない大人でありたい。それは社会から見ると不登校かもしれないし、ヤンキーなのかもしれない。不登校とヤンキーの本質は同じである。

隙間の存在を知って、「まぁ死ぬ必要はないな」と思う人間(子ども)が増えたらいいなとは思う。

生きる道は正規ルートだけじゃない。思ってるより裏路地はあるぞ。早まって死ぬ必要はない。(でも別にどうしてもしにたいなら死んでもいいと思う)

わたしは自分の狭い世界を愛している。

追記
アレルギーのあるその他の言葉
学び。なんかやだ。
→経験、納得、知識 ならアレルギーなし

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