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黙祷を「させられる」心地悪さ、それでもこの防災無線に必要性はあるわ

きのう、防災無線で市役所から「1分間の黙祷のお願い」があった。以前は音の割れた鎮魂のメロディが流れたものだが、ここ数年は耳障りな音楽なし。

いったい黙祷というものは市役所から頼まれてやるものかね。しかし放送がなければ、11時2分をきっかり黙祷に当てるのを忘れてしまう人が頻出するから、お知らせはやはり有用だ。

「原爆で亡くなられた方々のご冥福をお祈り」するためだと放送は言った。しかし核の廃絶や恒久平和の願いを含めたものが黙祷の対象にふさわしいのではないか。つまり、この国では、「ご冥福のお祈り」が核廃絶と平和への祈りに直接つながるので、「ご冥福をお祈り」するだけでいいのか疑問なのである。

「ご冥福をお祈り」しながらアメリカ人への復讐を誓う日本人がいるかもしれないし。被爆国だからこそ核保有国を目指そうとする言論もないではない。問題をはき違えることへのフォローは当然ない。

そしてもちろん、祈りが核のない世界を呼んだりはしない。総括すると、やはり黙祷を慰霊に特化するのが合理的なのであった。

わたしはそういうことを小一時間悩んでいて、鎮魂もせず、核廃絶も願わずに昼を迎えてしまった。あげく、原爆のことは年中そして毎日の大半考えているからいーや、なんて。思いを致していれば済むのかという図々しさは脇へ。

この夏も、黙祷をお願いされることには釈然としなかった。抵抗したのではないが、黙祷には集中できなかった。

平日昼間の仕事中に、それを中断して黙祷した人もいることだろう。放送の「お願い」を素直に聞き入れて、意味を考えることなく「ご冥福をお祈り」した人々が。

市役所が黙祷をお願いしてくることの妥当性は謎のまま。奇妙さは解消されず、黙祷の対象を検討するのは何の役にも立たない一方で、放送は、時間と目的を守って黙祷する日本人のために必要であったといえる。

ありがたいことです。目に留めてくださった あなたの心にも喜びを。