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犬 中勘助著(3)

※中勘助著『犬』という作品です。
※旧仮名遣いは新仮名遣いに、旧漢字は現在使われている漢字に修正し、読みの難しい漢字にはルビを振ってあります。

前回のお話

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3

 彼女は草庵のそばをとおるのがひどく苦になった。彼女は自分の属する種姓の卑いことからことに聖者を畏怖していた。それははかり知ることのできない深い智慧と、徳と、神の寵幸とをもち、また呪術によって幽鬼の類を駆使し、しばしば行力をもって諸天の意志をさえ強いることのできるものだと信じていた。彼女は聖者の黙想を妨げることをおそれ、路を埋めている落葉や枯枝の音をたてるのにさえ気をかねて、はだしの足を浮かせながらこそこそとそこを通りぬけた。彼女は息をころして一生懸命自分の足もとを見つめてゆく。それゆえ見える筈はないのだが、なんだか彼がどんよりとすわった眼でじっと自分を見送るような気がしてならない。とはいえ聖者は黙然として苦行をつづけていた。

 そのようにして幾日かが過ぎた。ある日彼女がいつものとおり猿神のところから帰ってきたときに、思いがけなくも聖者は苦行の坐から起ちあがるところであった。彼女ははっとして立ちどまった。太陽は沈みかけてはいるがなおけばやかな橙黄とうこうの光を横ざまに投げかけている。聖者はおもむろに起ちあがった。が、足が痺れていたのでよろよろとしてかたえの檬果樹の幹に手をつっばって身を支えた。
「これ女、そなたは毎日なにをしにくるのぢゃ」
 気も顛倒てんとうした彼女の耳に低くはあるが底力のある太い声が気味悪く響いた。彼女はなにかいおうとしたが、頬がふるえ、息がはずんで、とみには言葉も出なかった。
「なにをしにくるのかというのぢゃ」
 彼女は地に跪いて敬礼したのち声をふるわせながら答えた。
「猿神様へ願がけにゆくのでございます」
 聖者は尊大にうなづいた。その時にはもう幹から手をはなしていた。そうしてまだともすればよろめこうとする足を踏みはだけて立ちながらも彼女の身体をじろじろと見まわした。
「それはどういう願をかけに」
 そろそろと二足ばかり歩みよった。そうして頸筋までも赤くなってちぢこまるのを、疑り深い、意地の悪い眼でじっと見据えたが、ことさら声を和げていった。
「どういう願をかけにな」
 彼女は当惑して右左に眼をそらしていたが、ややあって憐れみを乞うように聖者を見あげた。長い睫毛のしたに黒い眼がうるんでいた。
「そのようにおびえんでもええ。わしはそなたを助けてやろうと思うのぢゃ」
 途方にくれた彼女は、五体を地に投じて聖者の足に額をつけて、両手をのばしてその踵をさすった。聖者はその温かみを感じた。彼女はようやく観念した。そしてしどろもどろに、かつかつにいった。
「この子の親にあいたいのでございます」
 この子、、、をいう時にせつなそうに自分の腹に目をやった。聖者は愕然とした。
「そなたは身重になっているか。そなたには夫があるか。……いや、そちは姦淫をしたか」
 彼の目は険しかった。
「その男は何者ぢゃ。どこに居るのぢゃ」
 彼女の顔は蒼白になった。
「いうてしまえ。わしに隠しだてをするとは愚かなことぢゃぞ」
 彼は静に諭すようにいった。が、微塵も違背をゆるさぬ婆羅門の命令的な調子があった。彼女はわなわなとふるえた。それはどうあってもいえないことだった。とはいえどうでもいわなければならなかった。いかに隠しても聖者の天眼はじきにそれを看破ってしまうであろう。
「はよういわぬか」
 彼女は覚悟をした。
「邪教徒で……」
「なに」
「御免ください。穢されたので……」
 彼女はひいと泣きふした。後の言葉は喉のなかで消えてただ口ばかり魚のように動いた。けれども馬のように立った大きな耳はそれをききのがさなかった。
「馬鹿ものめが」
 そうして忌わしげに彼女を後目にかけながら
「こっちゃへこい」
と叱るようにいって草庵のほうへ歩きだした。彼女はしおしおとたちあがった。そして我知らず森の出口のほうを見た。日はもうとっぷりと暮れた。今にも夜になろうとしている。
「早く帰らなくては」
と思う。𠮟責や折檻が眼に浮かんでくる。彼女はなにかいいたそうに顔をあげた。そうしてはじめてよく聖者の身体を見た。赤裸で、どす黒く日にやけて、腫物と、瘡蓋と、蚯蚓腫れと、膿と、血とで、雑色の蜥蜴のように見える。彼女は厭悪えんおと、崇敬と迷信的な恐怖の混淆こんこうした嘔きそうな胸苦しさを覚えて逃げ出したい気はしながら、憑かれたようにひきずられて草庵のなかへはいった。

続きのお話


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