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犬 中勘助著 (4)

※中勘助著『犬』という作品です。
※旧仮名遣いは新仮名遣いに、旧漢字は現在使われている漢字に修正し、読みの難しい漢字にはルビを振ってあります。

前回のお話

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4

 草庵のなかはまっ暗で、土のいきれとむっとする牛糞の臭いがこもっていた。それはその場処を清浄にするために時々牛糞を地に塗るからであった。聖者は神壇の前にさぐりよって、火を打って燈明をともした。ぱちぱちと油のはねる音がして火花がちっていたが、それがすむとすうっと焔が立って急にあたりが明るくなった。正面の中央には一段高く形ばかりの壇を設けて粗末な湿婆シヴァの石像が安置してある。それは聖牛に乗り、髑髏の瓔珞ようらくをつけて頸に蛇を纏った五面三眼の像であった。またかた隅には少しばかりの藁を敷いてしとねの形にしてある。それは坐具とも、食卓とも、臥榻がとうともなるところのもので、その傍には一個の水甕と、木鉢と、油壺と、そのほか日用、祭式用のわずかの道具類がおいてある。それで唯さえ狭い草庵のなかはやっと七八人のものが坐るほどの余地しかない。聖者は藁床のうえに腰をおろして尻込みする彼女をまぢかく坐らせた。そうして落ち着いた濁った低音で説法でもするように語りだした。
「これ女、そちはなんということをいうのぢゃ、そちは邪教徒に身を穢され、穢わしい胤まで宿して、そのうえまだ男にあいたいというか。そちは自分を穢した男が恋しいか。たわけめが。そちがそのように思う以上はそちは穢されたのではないぞよ。姦淫したも同然ぢゃぞよ。そちのような者 を湿婆シヴァは邪教徒と一緒に地獄におとされるじゃあろ。湿婆シヴァがなされずともわしがおとしてやるわ」
 彼女はたまらなそうに身をふるわせて泣いた。
「うむ、そちは泣くか。地獄へおちるのが悲しいか。それなら男を思いきるか。う、思いきってしまえ。の、忘れてしまうのぢゃ。一時の迷いならゆるさりょうず。わしはそちが可哀そうぢゃによってゆるしてやる。湿婆シヴァの御慈悲も願うてやる。う、わかっつろ。さあわかったならなにもかも湿婆シヴァとわしのまえで懺悔してしまうのぢゃ。何もかも隠さずに」
 いやも応もなかった。が、彼女はいうのが真実つらかった。それは拭いがたい不面目をうちあけることに対する羞恥よりは、寧ろ大事の秘密を暴露することに対する愛惜であった。根掘り葉掘りききほじる聖者に促されて、彼女がとかくいい淀みながら辛うじて語りおおせたその話はざっとこうであった。

続きのお話


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