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犬 中勘助著 (5)

※中勘助著『犬』という作品です。
※旧仮名遣いは新仮名遣いに、旧漢字は現在使われている漢字に修正し、読みの難しい漢字にはルビを振ってあります。

前回のお話

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5

 いつぞやマームードの軍がクサカの町に宿営したときのことである。彼女は日の暮れまえ邪教徒を恐れながら市外の流へ水を汲みに行った。ところが運悪くも――とその時は思った――一人の従者をつれた若い邪教徒の隊長――彼女はその男のみなりや供をつれていることからそう思ったのである――にばったりと行きあった。彼らは彼女を見るや否や両方から肩先をむずとつかまえた。そうして隊長のほうが、捕らえられた小鳥のようにわなわなしている彼女の顎に手をかけてぐいと自分のほうに仰向かせて、目ききでもするように、じっと顔を見つめた。そしてなにか一言二言いって従者に目くばせした。と、二人して腋下へ腕を入れて吊るしあげるようにぐんぐんとつれてゆく。彼女は
「御免なさい。放してください」
と泣きながら嘆願した。彼女は呼んだ。叫んだ。死物狂にあばれた。けれども足が殆ど宙に浮いているのでどうすることもできなかった。彼らは兎か猫の子でもつかまえたように面自そうに笑いながら彼女を天幕の沢山張ってあるほうへつれて行った。小高いところに一本の巨大な榕樹が無数の気生根を立てて、美しい叢林そうりんをなしている。その蔭にほかのものからすこしはなれてひとつの天幕がある。そこへ連れこまれた。それが彼らのであった。彼女はさっきからの必死の抗争ですっかり力がぬけてしまったがそれでもまだ執拗に
「帰してください、放してください」
を器械的にくりかえしていた。従者は
「大丈夫かしら」
というように用心深くそろそろと手をはなして入口のところに立ちふさがった。男は腰をおろして彼女を膝に抱きあげた。そうしてかた手で背後からしっかりとかかえて、かた手で極度の恐怖のために青白くなっている彼女の頬をそっとさすりながら、訳のわからぬ異国の言葉でやさしくなにかいいかけた。それをたぶん
「心配することはない」
とか
「どうもしないから安心しろ」
とかいうのだろうと思った。そこでやっとすこし気がおちついて怖々男の顔を見た。彼はまだ二十五六かと思われた。型のちがった異国人の顔ではあったが、眉の濃い、眼の大きな、凛としてどことなし気品のある顔であった。

彼女はなんとなく
「この人は無体なことはしやしない」
という気がした。いつしか彼女は彼の帯びている綺麗な蛮刀に見とれた。そのつかのところには金銀の飾がいっぱいついていた。彼はそれを無造作に腰からはずして彼女の手に渡した。そのとき従者がなにかいったら彼は微笑みながらうなづいてみせた。それを彼女は
「なに大丈夫」
と言ったのだろうと思った。実際それでどうかしようとできないでもなかったが、そんな気はちっとも起らなかった。その時彼は彼女を膝からおろして自分のそばに坐らせた。そうしてそこにあった果物をむいてすすめたのを手も出さずにいたら、彼はふくろをひとつとって彼女の唇におしつけた。彼女はまごついて口をあいてそれを食べた。彼は愉快そうに笑って頬ぺたをつっついた。そこで従者を呼んで二つの洋盃に酒をつがせ、先ず自分でひと息にのみほしてから、もうひとつのほうの洋盃を彼女の口へもっていった。彼女はもうなにもあらがう気がなかったし、すなおにしていれさえいれば帰してくれるだろうと思ったので大人しくそれをのんだ。甘い、いい匂いのする、きつい酒だった。喉がかっとして、おなかで煮えくり帰るような気持がした。男は彼女の手をとってうえしたに揺るようにして拍子をとりながらいい声で異国の唄をうたった。それをきいているうちに身体じゅうがかっかとほてって気が遠くなってきた。彼女は心細くなって、どうぞもう帰してくださいと言おうとするのだけれど舌が縺れてどうしてもいえない。そして自分で自分の身体が支えていられなくなってひょろひょろとしたところを彼に抱きよせられてぐたりとその胸に頭をよせてしまった。
 彼女はここまで話してきて急にさしうつむいた。
「犬めが、それからどうした」
 聖者はひどくせきこんだ。彼女は火のでるように赤くなった。
「それからその人は私の……従者は出てゆきました……」
「お……おのしはされ放題になっていたのか」
「いえいえ、でももうどうすることも……もがいても……呼んでも……」
「うむ、それから」
 聖者は話を目で見ようとするような様子をした。彼女は泣きだした。
「うむ彼奴はその頸を抱えたのぢゃな。その腹へのしかかったのぢゃな。うぬ!」
 聖者の顔は捩れ歪んだ。
 
続きのお話


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