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犬 中勘助著 (1)

※中勘助著『犬』という作品です。
※旧仮名遣いは新仮名遣いに、旧漢字は現在使われている漢字に修正し、読みの難しい漢字にはルビを振ってあります。

【あらすじ】
回教徒軍の若い隊長に思いをよせる女の告白をきき、嫉妬と欲望に狂い悶えるバラモン僧は、呪法の力で女と己れを犬に化身させ、肉欲妄執の世界に溺れていく……。


【本文】

1
 有名なガーズニーのサルタン・マームードは印度の偶像教徒を迫害し、その財宝を掠奪することをもって畢生の事業として、紀元一〇〇〇年から一〇二六年のあいだにすくなくとも一六七回の印度侵入を企てた。いつも一〇月に首都を発して三ヶ月の不撓の進軍をつづけたのち、内地の最裕福な地方に達する慣であったが、かようにして印度河から恒河にいたるまでの平原を横行して、市城を陥れ、堂殿偶像を破壊することによって、彼は「勝利者」「偶像破壊者」の尊称を得た。温暖豊満な南方平野の烏合の衆は、北方山地の勇敢な種族と、中央亜細亜草原の残忍な騎兵の団結した軍隊の、回教的狂熱と盗賊的貪欲に燃えたつところの攻撃によって砂礫のように蹴散らされてしまった。いたづらに驕慢な偶像教徒は凶暴な異教徒の前に慴伏しつつも、みじめな敗北者の陰険黒濁な憎悪と侮蔑をもってひそかに彼らの宗敵を咀っていた。
 これは一〇一八年にマームードがヒンドスタンの著名なる古都カナウジのほうへ兵を進めた時のことである。彼の台風のごとき破壊的進撃の通路にあたってクサカという町があった。彼の軍隊は行軍の都合上そこに宿営した。そうして、奪略、凌辱、殺戮等、型のごとくあらゆる罪悪が行われたのち、彼らは津浪のように町を去った。
 その頃クサカの町からほど遠くはなれた森のなかにひとりの印度教の苦行僧がいた。彼はもと町にあった相応な天祠の主僧であったが、回教軍が最初にここを通過した際に祠堂は跡かたもなく焼き払われ、偶像はこぼたれ、財宝は掠められ、そののちわずかに再建されたものの間もなくまたうち壊されて、幾度とない侵入のために終には不幸なその町さえが荒廃しそうな有様になったので、彼はとうとう住むべき家もなくなり、その森の中に形ばかりの草庵を結んでようやく信仰をつづけていたのである。彼はそこへうつってから思い出したように苦行をはじめた。それを人々は、彼が不倶戴天の異教徒を滅ぼして、印度教と印度の国を往時の繁栄と光明に蘇らすためなのだと噂しあった。実際北方印度の諸王の同盟軍をさえ粉韲ふんせいしたほど無敵な回教軍に対してはそんな風にでも考えるよりほかしかたのないほど彼らは絶望的な状態にあったのである。そのためにこれまではただ世間なみの天祠の主僧に過ぎなかった彼は――婆羅門の権威と清僧の誉とは正当にもっていたのであるが――偶ひどい苦境に陥った愚痴な人々の異常に放縱ほうじゅうな迷信的な崇敬をうけることとなった。

続きのお話し


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