犬 中勘助著(2)
※中勘助著『犬』という作品です。
※旧仮名遣いは新仮名遣いに、旧漢字は現在使われている漢字に修正し、読みの難しい漢字にはルビを振ってあります。
前回のお話(最初から読む)
2
草庵のそばにはすばらしい檬果樹があってあたりに枝をひろげている。その逞しい幹に這いあがったおそろしく太い葛羅は、ちょうど百足の脚のように並列した無数の纏繞根を出してしっかりと抱きついている。その二つの植物の皮と皮、肉と肉とがしっくりとくいあっている様子がなんだか汚しい手足と胴体とが絡みあっているようないやな感じをあたえる。その蔭に彼は毎日日出から日没まで、一枚の布片、一片の木の葉さえ身につけぬ赤裸のまま足を組んでじっと前方を見つめている。間がなすきがな螯しにくる蚊虻その他の毒蟲の刺傷のために全身疣蛙みたいになり、そのうえ牛の爪を鉤なりにしたもので時々五体を掻きむしるので――それは多分なにかの穢らわしい邪念を追いのけるためであろう――どこもかしこも腫物と瘡蓋と蚯蚓腫れとひっつりだらけで、膿汁と血がだらだらと流れている。自ら尊酷な苦行僧であった湿婆はかような奇怪な肉体の苛責によってよろこばされると信じられているのである。見たところ彼は五十前後であろう。苦行に痩せてはいるが元来頑丈にできた骨格をして、目だって広い肩と、太い肋骨のみえる強く張った胸をもっている。むしゃくしゃと垂れた白髪まじりの髪は脳天まで禿げあがり、大きな額のまんなかが眉間へかけて縦に溝がついて、際立って高くなった濃い眉の舌に睫毛のない爛れ眼がどんよりと底光りをしている。厚ぼったいだぶだぶした唇、がっしりした顎、膝頭や踝のとびだしたわるく長い脚、彼は髑髏の瓔珞を頸にかけて繋がれた獣のように坐っていた。
ここにひとりの百姓娘が毎日日の暮れる頃になるとはかならず草庵のそばをとおって森の奥へ、そうして暫するとはまたおなじ小路を町のほうへ帰ってゆく。彼女はその路、というよりは寧ろ人の足あとの行きどまりにある猿神の像に願をかけにくるのであった。彼女は草を刈り酪をつくるまも忘れることのできぬひとつの悩みをもっていたのである。
彼女は不仕合せな孤児で、ごく幼少の頃から遠い身よりの者の手に引きとられて育てられねばならなかった。その人達は格別性質が善くないという訳ではなかったが、一般に人間がそういう場合にあるようにかなり苛酷で無情だったので、彼女は物心づいてからろくに人情にやさしみ温かみを味わったことがなかった。そうして眠る時のほかは殆ど休む暇もない労役に鍛えられつい今度十七の春を迎えようとしているのである。いったいが丈夫に生まれついた身体は必要上めきめきと発達し、一方に境遇上の苦労や気づかいはその顔に明な早熟と孤独の表情を刻みつけて、彼女を実際の齢よりよっぽどふけてみせた。ただおのづから流れいづることをとめられたあどなさとあてのない深い憧憬とが乳房に乳のたまるように健な胸の奥に熱く溜っていた。
続きのお話し
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