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短編小説 バンコクトライアングルー恋の逃避行

 

追っ手を逃れてバンコクに逃げてきた月子。

飛行機の席の両隣には、イケメンと癒し系のふたりの男。
チャオプラヤー河を泳いで渡るわ、安宿の部屋からは逃げなきゃならなくわ、ナイトクラブで知り合った超絶美女と朝まで死闘を繰り広げるわ…。
せつなさ100%の抱腹絶倒恋愛サスペンス。


 

 えっと、47Bって……?

 サウスイースト航空バンコク行きの最終搭乗案内を聞きながら、動く歩道を全速力で突っ走り、やっとのことで機内にたどり着いた。

 Bの座席は、窓際の三列の真ん中だ。
 混んでいなければ三席独り占めしていけるのに、機内を見回すと、ほとんど空席が見当たらない混みようだった。

 荷物をロッカーに入れる人々を掻き分けながら、47列目にたどり着く。
 窓際のAの席に男がひとりで座っている。
 ちぇ、先客がいたか。47、48、49と書かれたロッカーを開け、荷物のボストンバッグを上げようとした。

「だいじょうぶ?」

 Aの席に座っていた男がこちらを向いて、言った。
 わ、イケメン。
 すらりと背が高く、ちょっとホストっぽいスーツがいただけないけど、ハーフっぽい顔立ちがけっこう好みなんですけど。
 男は座席から立ち上がると、ひょいとあたしのバッグをつかみ、ロッカーに収めた。

「あ、ありがとうございます」
「こちらこそ、こんなに可愛い子と隣って、俺ラッキー」

 ラッキーだって、ラッキーだって、ラッキーだって?

「名前、なんていうの?」
「あたしは月子」

 使い慣れている偽名を口にした。
 本当の名前なんてダサすぎて誰にも言えない。

「俺はシンヤ」

 なんとなく上手く行き過ぎているような気がして、あたしはシンヤの顔とか、全体の雰囲気をチェックする。

 ケンカの弱そうなイケメン。
 どう考えてもあいつらの回し者ではない。
 もっとガタイがでかくて、目つきが悪く、環境に溶け込む目立たない格好をしているはずだ。

 なにしろ、成田まで来るのも大変だった。
 あいつらを振り切って、高速を闇雲に走り、車から飛び降りて無理矢理リムジンバスに乗せてもらい、やっとターミナルまで来た。

 持つべきものは友達だ。
 留学先で知り合ったスピード狂のタクがいなかったら、あたしはとても日本から脱出できなかったと思う。

 それにしても、最終搭乗案内でさんざん人をせかしておいて、いったいどれだけ待たせるつもりなんだろう、と思っていたら、通路を走ってきた男があたしの隣のCの席に座った。

 げっ、絶対にあたしが最後だと思ったのに、上には上がいたか。

「あの、バンコクまでですか?」

 冴えないバックパッカー風。
 そして眠そうな麻呂顔。
 全然好みじゃない。
 でも、こいつも、どう考えてもあいつらの仲間ではない。
 とりあえず安心。

「は、はい」
「それじゃ一緒ですね。よかった」

 パスポートも留学時代の友達に頼み込んで、借りた。
 紛失したと嘘をついて、あたしの写真が入ったものをつくらせてもらったのだ。
 あいつらに捕まらないかとひやひやしたけど、ばれずに偽造することができた。
 これでやっと、国外に逃亡できる。

 シートベルト着用のサインが消えると、キャビンアテンダントが飲み物を配り始めた。
 ハイネケンと乾き物をつまみながら、あたしはシンヤと話をしていた。
 シンヤは仕事でバンコクと日本を行ったりきたりしているらしい。

「で、月子はバンコクに何しに行くの?」

 月子だって。
 呼び捨て。
 でもイケメンだから許す。

「あ、あたしはふつーに観光。たったの五日間だけど」
「そうか、じゃあ荷物とかって、たいしたことないよね」

 こっそり逃げてきたのだ。
 みやげ物なんて買って帰れない。

「うん。まったく機内持ち込みでオッケーなくらい」
「あのさ、日本じゃ売ってないタイの痩せるお茶っていうのが、すごい人気で、会社の女の子に頼まれて持って帰るのが大変なんだけど、ちょっと持って帰ってくれる?」

 C席の公家顔が、銀縁眼鏡の向こうからイケメンをえらく冷たい目で見ている。
 嫉妬してるのか?

「え、そんなのお安い御用」
「どこに泊まるの?」
「カオサンで適当に探す」

 カオサンというのは、バックパッカー用の安宿が密集している地域のことで、ガイドブックにはとりあえずそこを目指せと書いてある。

「じゃあさ、着いてからここに電話して。タイ用のケータイだから」

 シンヤは電話番号が書かれた紙切れをあたしに渡し、ちょっと、と言ってあたしと公家顔の男の隙間をすり抜けて、席を立った。

「……また会いましたね」

 カオサンの安食堂みたいなところで、インスタントコーヒーを飲みながら、これからどうしようかと考えていたところに、昨日の公家顔の男がやってきた。
 男はあたしのテーブルに座る。

「カオサンに泊まってるんだ?」
「いや、どこもいっぱいだったから、ホテルにしました」
「へえ、あたしんとこ、まだ部屋あいてるよ。狭いけど、まあきれいなとこ」

 はがれかけたビニールタイルは消毒液みたいな洗剤で磨かれていて、ベッドにはかつては赤だったと思われる色のカバーがかかっていて、ディレクター・チェアのキャンバスには、いくつもほころびを直したあとがある。
 日本での窮屈な生活を思えば、天国だった。宿代は三百円。

「いいんですよ。もうカードでデポジットも払っちゃったし」
「そう」
「ところで、バンコクの見どころって、何があるでしょうか?」
「うーん、人によるんじゃない?」
 あたしと公家顔じゃ、行動範囲も違うような気がするので、そんなこと返答に困る。
「では、どんなところに行てみたいとお思いですか?」
「ムエタイとか、見たい。それからオカマショーとか」

 起きてからすぐに、宿の電話を借りて、シンヤに電話をかけた。
 もって帰る荷物の件もあったけど、ちょっとバンコクの案内でもしてくれたらなあ、と期待していた。

 シンヤは一時間ほどで、真空パックされたお茶を十個ほど持ってきた。
 成田から宅配便で送っておいてくれと住所を書いた紙を渡し、これからチェンマイに行かなければならないと言って、さっさと帰ってしまった。

 チェンマイから帰ってきたら食事でもしようということになった。
 というわけで、今日の予定はまったくない。

「いいですね」
「僕も行きたいと思ってたんですよ。でもひとりじゃなんだか怖いからいっしょに行ってくれませんか?」

 こいつ、なんだか情けねえ。
 でも、銀縁眼鏡の公家顔にはなんとなく慣れてきた。
 というか、若い頃のパパとか、親戚のお兄さんに感じが似ているので、なんとなく落ち着くのだ。

「いいけど……」 
「よかった。ところで、僕、中条っていいます。なかちゃんってみんな呼ぶけど」
「あたしは、月子」 
「あ、あの、よろしく」

 なかちゃんは、右手をあたしに差し出す。
 え、握手? と思ったけれど拒否するのも変なので、なかちゃんの手を軽く握った。
 なかちゃんの手は無用に大きくて、でも、爪の形がきれいだった。

 ムエタイも、オカマバーも夜のものなので、なかちゃんとあたしは、暁の寺と呼ばれるワット・アルンに行くことにした。
 タクシーで船着場まで行って、渡し舟で対岸に渡り、ところどころに屋台のようなものが出ている参道を抜けると、やっとお寺の塔の上り口に着いた。

 階段は果てしなく続いている。
 体力には自信がある。
 クラブで徹夜、なんて、へでもない。
 でも日本に帰ってからは夜遊びもできなくなって体はなまりがちだった。
 たちまち息が切れて、足を止める。
 うっかり下を見たら、立ちくらみをおこしそうになった。
 つかまるところを探したけれど、なにもない。あたしは、高いところが苦手だ。

「ちょっと……なんで手すりとかついてないのよ」

 その上、階段の幅は狭く、微妙に傾斜がついている。

「美観を損なうからでしょう」

 仲ちゃんが涼しい顔で言う。
 ちょっと、美観ってなによ。
 こわいよ、こわいんだってば。

「やだもう、これ以上上れない。降りようよ」
「月子さん、もしかしたら怖いんですか?」
「こ、こわくなんかないわよ」

 なかちゃんがあたしの手を取る。
 よゆーの微笑み。

「だいじょうぶですよ」

 脚が震えてきたけれど、なかちゃんに手を引かれて、なんとか一番上まで上がることができた。
 バンコクの市内が一望できて、なかなかいい眺め。

 ふと、寺院のふもとを見ると、黒い服にサングラスの日本人の男があたしたちを見上げている。

 まずい。
 まさかバンコクまで追いかけられるとは思っていなかった。
 やばい。
 どうするか?
 とりあえず、逃げる。

「な、なんか、空気薄くない?」

 この程度の高さで空気が薄くなるわけはない。

「え? そんなことないと思うけど……そろそろ降りましょうか?」

 長い階段を下りる間に逃げる方法を考える。
 そうだ、日焼けするといって、なかちゃんのシャツで顔を隠す。
 カップルのふり。というかその両方。

「あのさ、日やけ止め塗ってこなかったの。ちょっとシャツ貸して」

 ボタンを留めずにTシャツの上に羽織っていたシャツを引っ張って顔を隠し、なかちゃんの脇の下のすっぽり隠れるようにして、階段を下りた。

 地上に戻ると、やはり黒服の男はあたしたちを遠巻きに見ていた。
 河のほうを見ると、渡し舟がまさに出発しようとしている。

「なかちゃん、走るわよ。あの船に乗る」

 全速力で走った。
 船はすでに出発していて、岸から五メートルくらいのところにある。
 あたしは河に飛び込んだ。
 泳ぎはそれほど得意でない上に、Tシャツが水を吸ってまとわりつき、スニーカーを履いた足では上手く水を蹴ることができない。息が苦しくなって、必死で水を蹴って顔を水面に出し、息を吸おうとした。
 吸い込んだのは水で、激しく咳き込んで、鼻からも口からもたくさん水を吸い込んで、あたし、死ぬんだな、こんなところで死ぬなんて馬鹿すぎる、とぼんやり考えた。
 
 目を覚ましたのは、ホテルの部屋だった。

「月子さん、大丈夫ですか?」

 なかちゃんの心配そうな顔。
 ベッドから跳ね起きた。
 ブランケットがずり落ちる。

「きゃあああああ」

 慌ててブランケットをたくし上げた。
 裸……!!!!!
 ちょっとどういうこと?

「月子さんはチャオプラヤー河で溺れたんです。あの……その……服は濡れていたので……着替えを買っておきましたので……あ、シャワーでも浴びて、き、着替えといてください。しばらくしたら戻ってきます」

 なかちゃんはそう言うと、逃げるように部屋を出た。
 ここはなかちゃんの部屋だったのか。
 クイーンサイズのベッドと、横にダブルベッドがひとつ。
 あたしは起き上がって、裸で部屋をうろうろと歩き回った。
 電話の脇のファイルにはインターコンチネンタルという文字が入っている。

 言われたとおりにシャワーを浴びて、ブティックの袋を開けてみた。
 わりと実用的な感じの下着まで……。
 しかもサイズもどんぴしゃ。
 それから、黒のシンプルなデザインのワンピース。
 細かい織模様と独特の光沢があるタイシルクのようだった。
 華奢なデザインのサンダルまで用意されている。
 髪をドライヤーで乾かしていると、ドアをノックする音が聞こえた。

「なかちゃん、ありがとう」
「月子さんがご無事でなによりです。ところで、これからムエタイを見に行きませんか? 時間的にもちょうどいい頃ですし」

 時計を見るともうすぐ五時だったので、そうすることにした。

 なんとなく魚醤とにんにくっぽいにおいがするムエタイのスタジアムに、なかちゃんとふたりでやってきた。
 オイルで肌をてかてかに光らせたふたりの男がリング上で戦いを繰り広げている。
 ひとりは猿顔の小男、もうひとりは細身で整った顔をしたイケメンだった。
 誰かに似ていると思ったら、シンヤに似ている。
 思わずイケメンを応援したけど、猿顔はなかなかにすばしこく、イケメンのパンチとキックを巧みによけながら、隙を突いて腹を蹴りつける。勝負は一目瞭然だった。

 隣のなかちゃんの顔をちらりと見ると、どちらを応援するともなくリングに見入っている。
 優しいし、いい人だとは思うけど、やっぱりシンヤといっしょだったらなあと思う。
 ムエタイの試合は夜中まで延々と続くので、第二戦まで見て退散することにした。

 海老のペーストを塗ってカリカリに焼いたトーストと、シンハービールで乾杯し、さつま揚げみたいなすり身の揚げ物、辛くて酸っぱいトムヤムクン、魚醤とトウガラシで味付けされた青パパイヤと沢蟹のサラダ、それから、グリーンカレーなどを注文した。
 腹ごしらえを済ませたら、ショーをやっているオカマバーへGOという計画だ。

「月子さん、明日はどうしていらっしゃいますか?」

 一日中いっしょにいたのに、相変わらず馬鹿丁寧な言い方で、なかちゃんが聞く。

「明日? まだ考えてない」

 バンコクの見所はまだ、エメラルド寺院とか水上マーケットとか、いろいろ残っている。

「パタヤに行ってみようと思っているんですが、いっしょに行きませんか?」

 シンヤは数日間、帰ってこないと言っていた。

「うーん、そうしようかな」
「そうしましょう。ひとりで行ってもつまらないし」

 揚げたてのさつま揚げが運ばれてきた。

 オカマバーでは、どこが男なのかまったくわからないきれいなお姉さんたちのショーを見た。
 横でいちいち感激のため息を漏らすなかちゃんがかわいらしいような、うっとおしいような。

 カオサンの入り口でタクシーを待たせ、なかちゃんに宿の前まで送ってもらった。
 別れ際に、なかちゃんに、
「月子さんが無事に部屋に戻るまで、ここでお待ちしております」
 と言われて、ちょっとだけ感動した。

「わかった。じゃあ窓開けて手を振るね」

 狭くて暗い階段を上がり、受付でキーを受け取り、あたしの部屋のドアノブに鍵を差し込む。
 開けたはずなのに、閉まってしまい、変だなあと思ってまた開けた。

「!」

 部屋がめちゃくちゃに荒らされている。
 慌てて窓を開け、なかちゃんに助けを求める。

 貴重品は持ち歩いていたので、被害はない。
 荷物は散らばってはいたけれど、服は動きやすい普段着しか持ってきていないし、ブランド物のボストンバッグも無事だった。
 なくなったものは、今朝シンヤから預かったお茶だけだった。

「なかちゃん、出かけている間に、ど、泥棒に入られちゃった」
「あの、何を取られましたか?」
「それが……シンヤって人から預かったお茶だけが失くなってるの」
「他になくなったものは?」

 なかちゃんは思いのほか冷静だった。

「それだけ」
「とりあえず、宿は変えたほうがよさそうですね。インターコンチネンタルに戻りましょう。満室ってことはないと思いますし」

 たしかに、泥棒に忍び込まれた部屋にひとりで泊まりたくない。

「人から預かったものを失くしちゃったって、なんか責任重大」
「それは不可抗力です。泥棒に入られるなんて予測できません」

 でも、一応シンヤに連絡しておいたほうがいいだろうと思って、受付から電話をかけ、事情を説明した。
 シンヤはまだチェンマイにいるようだった。

「なんだって? クソ、とぼけやがってこのアマ、ちょろまかそうたってそうは行かないぜ。とっととあのお茶を返しやがれ」

 え?
 ちょろまかすって?
 返せって?
 何のこと?
 なんでいきなりそんなことを言われなきゃならないの?

「ごめんなさい。お茶は買って返すから」
「買って返すだと? じゃあ五百万払ってもらおうか? とりあえずうちの若いもんをそっちに送るぜ。日本人の女は人気があるからな」
「ご……五百万? 」

 払えないことないけど、こっそりバンコクに来てることがばれたらまずいし。

「どうしたんですか? 月子さん?」
「……あのお茶、五百万もするもんなんだって……それから、あたし、どっかに売られちゃうみたい」

 なかちゃんは、あたしから受話器をひったくると、

「じゃあこれから警察に電話してよろしいですね。便名と座席がわかればすぐに身元は割れますし、タイ警察だけじゃなくて、日本の税関と麻取にも連絡を入れておきますが」

 ちょっと、警察とか、税関とか麻取って?
 なかちゃんはそれだけをシンヤに言うと、受話器を受付の女性に渡した。

「とにかく、ここは危ないから出ましょう」

 あたしは急いで荷物をまとめ、待たせておいたタクシーに乗って、なかちゃんが泊まっているホテルへ戻った。

 なかちゃんは、別の部屋に泊まるようにと、レセプションに交渉しようとしたけれど、ひとりの部屋にあいつらか、シンヤいう「若いもん」が追って来たら怖いので、なかちゃんの部屋に泊めてもらうことにした。

 部屋に戻るとなかちゃんは、
「あの……、ベベベ、ベッド二個あるから……。あの、僕、危ない人じゃないから大丈夫だし……」
 と、ぶつぶつ言いながら、逃げるように浴室に入ってしまった。

 別に危ない人でもいいですってば。
 いろいろ助けてもらったし、慣れてくるとそんなに情けない顔でもないし、けっこう頼りになるいいやつなので一回ぐらいヤってもばちはあたらないと思った。

 なにしろ、あたしは留学先では超がつくビッチといわれた女。
 それに、日本ではいい子にしすぎていたので、久しぶりに異国の夜を楽しみたい。

 手持ち無沙汰だったので、部屋のテレビをつけると、ニュースキャスターみたいな人がタイ語で何かを喋っている。
 天気図が出てきたので、おそらく天気予報なのだろう。

 なかちゃんが、腰にタオルを巻いて浴室から出てきた。
 冷蔵庫からシンハーの缶をふたつだし、プルトップを開ける。
 服を着ているとひょろりとして見えるけど、裸になると、けっこういい体してる。
 それに、眼鏡を外していて、濡れた前髪が額に落ちているのが、なんともいえずにセクシーな感じ。
 けっこう当たりかも。

 なかちゃんはソファーに座ってビールを一口飲むと、
「月子さんもシャワー浴びてきたら?」
 と言うので、そうそう、そうこなくっちゃ、と思う。
 可愛いナイティとか、持ってこなかったのが悔やまれるけど、まあ脱いじゃえば同じだし。

「月子さんは、なんでひとりでタイに来たんですか?」

 シャワーのあと、あたしは、色気のかけらも感じられないハードロックカフェのTシャツと、ショートパンツに着替えて、なかちゃんの横に座った。

「日本にいると、息が詰まるの。なかちゃんは?」
「本当は国内旅行するはずだったんですけど急に……あ、いや、あの、僕、遺跡が好きなんです。文化人類学の研究をしているので。なんとなくタイに行きたいなあと思いまして……」

 遺跡なら、もっといいところがあるだろう、カンボジアとか。
 と思ったけど、とりあえず突っ込むのはやめておいた。

 なかちゃんは、疲れたからもう寝ると言って、さっさとベッドに潜り込んでしまう。
 ちょっと、なにこの展開?
 あたしも続いて、なかちゃん横にもぐり込む。

「いっしょに寝ましょうよ」
「……」

 寝てる。
 すごい寝つきのよさ。

 ちぇっ、なんだかつまらない。
 なかちゃんの寝顔は、どういうわけかすごくイケメンに見える。
 眼鏡のせいでまつげが意外に長いということに気がつかなかった。
 調子に乗ってほっぺたにキスしてみた。
 ぐっすり眠ってしまっているようで反応がない。
 ブランケットの上に出ている手を持ち上げてみる。
 くそっ、眠っている男の腕ってなんて重いんだ。
 枕の脇辺りにおいて、その上に頭を載せてみる。
 あたしも今日一日いろんなことがあって疲れていたらしく、たちまち眠気が襲ってきた。

 次の日は、朝早く起きてパタヤに移動した。
 パタヤの近くのラン島というところまで足を伸ばして、パタヤのホテルに一泊し、バンコクへ戻る予定だ。

 朝の八時頃に、迎えに来たバスに乗り、約一時間半ほどで、パタヤに、それから渡し舟に乗ってラン島に渡る。

 更衣室みたいなところで水着に着替えて、狭い間隔でびっちり並べられたデッキチェアにふたりで寝転んだ。
 少し人が多すぎるような気もするけど、ビーチは白砂で、とてもきれいだ。

 なかちゃんが、不器用な手つきで背中にサンオイルを塗っている。
 ココナツとムスクが混ざったような、甘い香りが漂ってきて、ああ、なんだかいきなり夏。

「なかちゃん、塗ってあげようか?」

 返事も聞かずに、なかちゃんの手からオイルのボトルを取り上げ、掌に垂らし、なかちゃんの背中に伸ばす。
 片方の首筋だけがなんか張ってるなあと思ったら、無理矢理腕枕させて眠ったことを思い出した。なかちゃんごめん。

「ねえ、あたしにも塗って」

 と言って、日焼け止めのチューブをなかちゃんに渡す。
 なかちゃんは、少しずつチューブから液体を出し、あたしが自分で塗るよりずっと丁寧に塗ってくれた。

 ホテルの売店で浮き輪を買って、時々海に浮かんだり、デッキチェアに寝転んで南国の果物をそのままミキサーにかけたみたいなこくのあるジュースを飲んだりしているうちに、いつの間にか夕方になってしまい、船でパタヤに戻った。

 すっかり夏気分を満喫したあたしは、さらに調子に乗って、ついクラブに行きたくなってしまった。
 パタヤでは有名らしいマンハッタンというナイトクラブは、クラブというより、昔ながらのディスコ、それも、高校の文化祭みたいな雰囲気のところだ。
 ちっともおしゃれじゃないんだけど、この素朴なところがなかなかいい感じ。

 なかちゃんはこういうところにちっとも慣れてないみたいで、カウンターにしがみつくように、挙動不審にあたりを見回している。
 ナンパ目的で行ったわけではないけど、白人の男に声をかけられて、いっしょに何曲か踊った。
 カウンターに戻ると、なかちゃんが、現地人らしき女と、楽しそうに話をしている。
 薄いオリーブ色の肌におかっぱにした黒髪、ほっそりとした体つきに、気品のある顔立ち。
 女は、あたしに気がつくと、屈託なく微笑む。

「ティアさん、だって」

 なかちゃんが、曖昧な表情で女をあたしに紹介し、ティアに英語であたしのことを話す。
 ただの友達、だって。
 わざわざガールフレンドじゃないって説明してるってことは、ティアに下心があるってこと?
 たしかに、パタヤまでやってきて、あたしのお守りなんて、そりゃつまらないに違いない。
 てゆうか、別にお守りされてる気もないし、ヤっちゃってもいいんだけどさ、やっぱりあたしじゃダメなのか?

 バンコクで同じ部屋に宿泊しているので、パタヤでも何の疑いもなく部屋はひとつにした。
 なかちゃんがティアをお持ち帰りしたいのなら、別の部屋に泊まろう。
 あたしだって、そんなことに目くじらを立てるような子供じゃないんだし、あたしもボーイズゴーゴーとかに行っちゃおうかと思う。
 でも、別々に夜遊びするためなら、なんでわざわざふたりでパタヤに来たんだろう。

 ティアがあたしの腕を引っ張っる。
 いっしょに踊りたいらしいので、しょうがなくまた踊る。
 ティアはゴーゴーバーやビアバーから連れ出されたらしい女の子たちとは違って、ちゃんとしたダンスができた。
 なんか、負けたなら、負けたなりになんとなくティアと踊るのがすっかり楽しくなってきて、はっと気がついたらフロアのど真ん中でかなりのスペースを占領しながら、踊っていた。

 すっかり踊り疲れて、カウンターで飲み物を頼む。
 テキーラサンライズと、マルガリータ。
 なぜかパタヤでのアルコールはテキーラがデフォルトらしい。

「月子さん、ごめんなさい。でもティアと気が合ってよかったです」

 ちょっと、気が合うってどういうことよ、なかちゃん?

「なかちゃん、今日はあたし、別の部屋に泊まるから気にしないでいいよ、ほんと」 
「つ、つ、つ、月子さん、そんなこと言わないで、いっしょに泊まってください」

 なかちゃんが拝むようにあたしに手を合わせる。

「どういうことよ?」
「ティア、男なんですよ。年は十四、五でしょう。まだほんの子供です。手ぶらで置屋に帰ったら婆さんにぶたれるって言うからつい……二千バーツ払っちゃいました」

 なんて、お人よしなんだよ、こいつ。
 なんだかよくわからないけど、ティアとふたりで踊りまくっていたら、いきなり曲がスローバラードに変わる。もうラストソングの時間か。

 ティアはフロアから姿を消したので、あたしも少し休もうと思ってカウンターに向かうと、ティアがなかちゃんを引っ張ってきたのに出くわした。
 そうだよね、一応買ってもらったんだし、と思ったら、あたしとなかちゃんを踊らせようとしているようだった。

 なかちゃんは、周りを見回すと、あたしの肩を正面からそっと抱く。
 なかちゃんの腰に手を回して、ビートに合わせて体をゆらす。なかちゃんのこめかみのあたりから、汗が流れてきて、ミラーボールの光を反射する。
 その雫に思わず唇を寄せ、かすかにしょっぱい汗を味わいながら、腰に回した腕に力をこめる。
 唇を離すと、正面からなかちゃんとお互いの顔を見つめ合った。

 どちらからともなく唇を合わせ、何の迷いもなく舌を進入させる。
 音楽が聞こえなくなって、思わずフロアのど真ん中でよろけそうになって、あたしはなかちゃんにしっかり支えられて、身を任せる。
 曲が終わってフロアが明るくなるまで、あたしたちは抱き合って、舌を絡めあったキスに溺れていた。

 一応約束なので、ティアを連れてホテルに戻った。
 ティアに先にシャワーを使わせて、その間にまたこっそりキスをした。
 あたしがシャワーを浴びている間に、ティアはうつぶせになったなかちゃんの背中をマッサージしていた。
 なかちゃんの番が終わったあと、あたしもやってもらった。なかなかの腕だった。

 それから、どういうわけか、トランプの大富豪をして遊んだ。
 ティアは勝負事に熱くなりやすい性質らしく、マットレスをばしばし叩きながら、何度も何度もゲームしたがった。夜が白みかけるころ、カードを握り締めたままなかちゃんが気絶、それから程なくして、あたしも眠ってしまったようだった。

 目を覚ましたのは、十一時少し前で、ティアは出て行ったあとだった。
 ぼんやりする頭で、たしかチェックアウトは十一時だった、と思う。あと十分しかない。
 なかちゃんを起こし、そっこーで洗顔とメイクを済ませ、荷物をまとめ、バスの時間までパタヤの街を歩き回った。

 バンコクに戻り、疲れたのでホテルで夕食を済ませ、部屋でビールを飲んだ。
 すっかりなかちゃんとふたりでいるのに慣れてしまったのに、よく考えたら明後日の昼頃には、なかちゃんと別れて、バンコクを出なければならない。
 なかちゃんは一日遅れで東京に戻る予定のようだ。

 昨日、ナイトクラブであんなキスをしたにも関わらず、バンコクに戻ってきたら、なかちゃんはパタヤにいく前の調子に戻ってしまった。
 そして、夜が早い。

「あの、そろそろ寝ましょう。明日は水上マーケット観光もありますし」

 仲ちゃんはそう言うと、ベッドに潜り込む。
 また瞬殺で寝付かれてしまったら、あたしの立場と言うものがない。
 すかさずなかちゃんの脇に滑り込む。

「ねえ、なかちゃん、キスして」

 なかちゃんは、あたしのほっぺたに軽いキスをする。

「そんなんじゃ、やだ」

 あたしは、なかちゃんの唇に自分の唇を合わせる。
 背中に手を回して、舌で口をこじ開けると、なかちゃんの体温が一気に上がったような気がして、あたしの体も痺れるように熱くなる。

 なかちゃんは、そっと唇を離し、
「月子さん、おやすみなさい」
 と言って、くるりとあたしに背を向けた。

 ちょっと……いったいどういうこと?
 あたしはなかちゃんの背中に抱きつく。

「なかちゃん、そんなにあたしのこと嫌い?」
「あの……、月子さんといっしょの部屋に泊まるって決めたときに、変なことしないって、約束したじゃないですか?」

 そういえば、なかちゃんがそんなことをひとりでぶつぶつ言ってたけど、同意した覚えはない。

「そんな約束、してないって」
「で、でも、あの、ダメです」
「なんでー、あたしがいいって言ってんのに。わかった、日本に彼女がいるとか」
「いませんよ。断じて」
「うそだー、いるからむきになって否定するんでしょ。って、別にいてもいいよ。ね、しようってば」
「だから、いませんってば。それに、いい加減な気持ちでするのはダメです」

 なんか、妙に真面目なやつめ。

「あたしね、なかちゃんのことが好き。大好き。日本に帰ったらきっともう会えないと思うけど、このまま別れたら後悔すると思う。ねえ、これ以上言わせないでよ」

 なかちゃんの正面にまわって、もう一度キスをした。
 溶けそうな感じ。
 鼻にかかった声を漏らしてしまう。

「……月子さんにお願いがあるんです。あ、あの、絶対に声を出さないでください。周りに聞こえると恥ずかしいので」

 なんて神経質なやつ。
 でも、それから、我慢の糸がぷつりと切れたみたいに、なかちゃんは別人になった。
 相変わらず優しくはしてくれたけど、声を出さないようにするのが大変なくらい。お陰でまた眠る暇がなくなってしまった。

 最後の日は、結局遅い時間に水上マーケットを見て、なんといやらしいことに早々にホテルに戻って、また夕方までした。

 夕食はルームサービスにして、おままごと遊びみたいに食べさせあったりして、冷静に考えると今夜しかないって、泣きたくなるシチュエーションだけど、悔いの残らないように思い切りベタベタして、いい思い出にしよう。
 そう思って先のことはできるだけ考えないようにした。
 
 ホテルをチェックアウトして、タクシーでドンムアン空港まで行く間は、涙が止まらなかった。
 帰ってもまた会いたい、ずっとなかちゃんといっしょにいたい、なんて思いながら、ずっとなかちゃんの手を握り締めていた。
 でも、そんなの無理だ。

 なかちゃんは、泣きもせずに落ち着いていた。

「月子さんとはどこかで会えるような気がするんですよ」

 などと能天気なことを言いながらも、大学の研究室の名前が書かれた名刺をくれた。
 でも、あたしのことは何も聞かない。
 だから、本当の名前も、連絡先も告げずに別れた。

 搭乗してしばらくは涙が止まらなかったけれど、いつまでも泣いているわけにはいかないと思って、気を紛らわすために、新聞を読み始めた。
 バンコクで観光客に痩せるお茶と偽って大麻を運ばせていた男が逮捕されたという記事を見つけた。

「おひいさま、ご学友との北海道旅行はいかがでしたでしょうか?」
「まあまあ」

 独身最後の旅行なので、SPはつけずに出してもらった。
 バンコクまで尾けられたかと思ったけれど、チャオプラヤー河で溺れてからは、あの黒服の男を見かけることはなかった。

「お婿さまの候補者の資料を持って参りました」
「そんなの興味ない」

 ずっと逃げ続けていたけど、もうおしまいだ。
 今度こそ本当に結婚させられるのだ。

「大変素晴らしい方でいらっしゃいます。文化人類学のご研究をされていて、趣味はご旅行、お名前は中条勝也さまとおっしゃる……」
 
「!」

 じいやから、ファイルをひったくった。

 緊張したなかちゃんの顔写真。
 写真の裏で笑いをこらえてるみたいな。
 ちょくしょう、罠だったのか。
 くそじじいめ。

 それでも、なかちゃんとまた会えるというだけで、あまりに嬉しくて、あたしは、
「このくそ自慰野郎」
 と言って、じいやに膝蹴りを食らわした。

                ―了―


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