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優生思想。ドイツ生活のぼやき - 24


115センチの母

ツイッター(と呼んでいるX)で、生まれつきの難病「軟骨無形成症」の影響で、身長が115センチの女性が妊娠し、無事出産したというニュースを見ました。それまでは良かったのですが、それからしばらくして、そのツイートを引用した投稿を見て、思ったことをつらつらと。

きむちちゃーはんさん(@iyaiyadatte)という方の投稿をそのまま書き写します。

50%の確率で遺伝するのに産むの鬼畜すぎる
どういう神経なんやろか?

「きむちちゃーはん」さんのX投稿より(@iyaiyadatte)、2024/5/31

コメント欄でのやり取りを見てみると、どうやら、高い確率でこの難病や難聴などが遺伝し、生まれてくる子どもが苦労するのが分かりきっているのに、どうしてわざわざ子どもを産むのか、子どものために良くないのでは、というような考えを持っているようです。

わたしも「産まない方がいい」人だった

実はこの考え、わたしは少しわかります。わたしは生まれてから四半世紀弱、生きていてよかったとか、生まれてきてよかったと思ったことがありませんでした。それどころか、10歳になるかならないかの頃にはなるべく早く死にたい、20歳くらいで終わりたい、なんなら今すぐになんて思っていました。それなりに楽しい記憶もあったし、いろいろあって家庭がピリピリしていた時期もありましたが、家族からは生まれてから今もずっと、随分愛されてきたと思います。それでも、生きているのが辛かったし、なぜわたしの親はわたしなんかを産んでしまったんだと責めるような気さえ持っていました。

あとから分かることですが、原因はいわゆる発達障害だったと思います。大学に入ってから、大学に勤務してくださっていた精神科のお医者さんに「疑い」があるといわれただけですが、感覚過敏などは今もつらくて、あれこれ対策が欠かせません。仕事選びも、人様になるべく迷惑をかけないようにと、慎重です。大人になった今でもこうやって気を遣うのに、無自覚だった当時は特に、学校の騒音やルールに慣れることができなかったり、周りとの接し方がぎこちなかったりと、そういう小さな積み重ねで「生きていたくない」「世界がつらい」という地点にたどり着いてしまっていたのだと思います。

そんなだったから、子どもを産むことを考える歳になって、「子どもに似たような思いをさせていいのだろうか?」と急に不安になって、目の前が真っ暗になったんです。数年前から恋人(今の夫)と暮らし始めて、たぶん発達障害の影響で口論になったり、自分をうまくコントロールできなかったりということがあって、これじゃあ子どもが可哀そうだ、こんなの無責任だと強く考えるようになりました。

世界とわたしとの関係が変わった

それから数年。結婚も経て、現在では感情的な口論はかなり減り、言い合いになったとしても、お互いにお互いの考えを伝え合い、なるべく相手の意見も理解するように努めるということもできるようになりました。おそらく障害のせいで起こる「メルトダウン」みたいなものも、察知したら自分でクールダウンしたり、イヤフォンを付けて「爆発」を防いだりできています。また、モンスターのように現れるPMSへの対応も随分上手になってきたと思います。

それから、もっと健康になりたくて、ちょっと筋トレをしてみたり、散歩の頻度や距離を増やしてみたり、単に食いしん坊だから色々と料理してみたりして、本当にちょっとしたことを積み重ねていたら、だんだん人生が楽しくなってきました。

散歩中に聞こえるドイツの超絶技巧な鳥の歌(いつかみなさんにも聞かせたい)や、ふと視界に入る虫や小動物たちの美しさとか、趣味で続けているバロックダンスで息ぴったりに踊れたときの喜びとか、今まで知らなかった美味しいものを味わったときの感動とか、タイマッサージに行ってみて背中が想像もつかないほどバキバキ鳴ったときの驚きとか、もちろん夫や家族や友だちと過ごす穏やかで心地いい時間とか、耳も視界も心も悦ばせてくれる詩や文章に出会ったときとか、鳥肌が立って興奮する音楽に包まれたときとか。今までつらかったのは、いる場所をちょっと間違えてただけだったのかと思うようになりました。

今、子どもを持つことに対して思うのは、――もちろん天からの授かりものであるということを前提としても――「この美しい世界を、まだ生まれていないあなたにも見せてあげたい」ということだけです。今までの息苦しさを、この世界の美しさが勝ったのです。


優劣の定義が曖昧だから

きむちちゃーはんさんのツイートに対して「それは優生思想ではありませんか」というコメントがありました。「優生思想」って一口に言っても、何をもって優れていて、何をもって劣っているといえるんでしょうかね。

わたしには苦手なことも多いですが、得意なこともたくさんあります。それは「多くの人」が苦手とすることの場合もあります。わたしの大切な叔母は先天性の身体障害があり、歩いたり話したり家事をしたりするのが人よりゆっくりですが、誰より編み物が得意で、現実的に物事を見て、頭が良くて、本当に子どもの世話が上手です。自分では楽器を演奏しないけど、わたしが弾くピアノに的確なアドバイスをくれたり、ドラマを見ていただけで韓国語を理解できるようになっていたり、耳の良いすごい人です。手がうまく動かなくて液体を使うのが苦手だから心配していたら、ネットを駆使して粉のお醤油やお出汁、トマトペーストなどを綺麗に買いそろえてせっせと料理していました。定義によりますが、感覚として、わたしたちは、たぶんそんなに劣っていません。

そもそも、例えば軍事とか経済とかそういう「国力」になることを優れているとするなら(すごくナショナリズム的ですけど)、わたしたちの良さを生かしきれていないそちらの問題では?と今なら言い返せる気さえします。それはちょっと言いすぎかな(笑)

現実的には難しいことも多いけれど

現実的な問題として、高い確率で障害が遺伝すると分かっているなら、経済的に養える見込みがあるかとか(障害がある場合はどうしてもお金がかかることが多いので)、必要となったときに適切なサポートに繋ぐことができるかとか、そういうのを心配することはできるでしょうけど、それって子どもを産むと決めた時点で発生する心配ごとですよね。個人的な意見ですが、そもそもドイツや日本といった民主主義の国においては、どんな子が生まれようと子育て(というか、人が育つこと)に対するサポートが整っていることが理想だとは思います。

人類の一部としてこの世で生きていくなら、社会のサポートは欠かせないし、誰もがなるべく不安を持たずに人生を全うできる状態が一番理想的だと思います。誰であろうと、人々の不安が大きくなって良いことはあまりありません。

そのうえで、生物として「産む(産んでもらう)」ことが叶う以上、本人の意思、たとえば単に「自分の遺伝子を持つ子どもが欲しいから」とかわたしみたいに「世界の楽しさを共有したい」とか、「家業の跡取りが欲しい」とか、どんな理由でも新たなニンゲンを誕生させることはできますし、それを他人が止めることはできないと思います。社会や他人にできることは、誕生したニンゲンをニンゲンとして扱うということだけですよね。ありきたりな言い回しですが、わたしは「多様性」を尊重し、できるだけ多くの人が幸せを感じながら、つまり生まれてきてよかったかもと思いながら生きられる社会を目指すニンゲンでありたいです。


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