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風の吹くままに

<4>

―ノゾミさん―

「中村さん。」
夕食の時間が終わり部屋に戻ろうとしていたとき、後ろから名前を呼ばれた。振り向くとノゾミさんが遠慮がちに微笑んでいた。
「あぁ、ノゾミさん。どうかしましたか?」
「いえ…実はちょっと。」
僕はとりあえず、傍にある長椅子に腰掛けた。ノゾミさんは静かに隣に座った。
「私、退院決まったんです。明後日。」
「そうなんですか?良かったじゃないですか。病状が良くなったってことですよね?」
僕がそう言うとノゾミさんは少し頷いた。
「元々、ノゾミさんってどこが悪かったのか分からなかったですよ。」
「えぇ…よく言われます。でもね、私、ここに入院した当初はずっと保護室だったし…手が付けられない病人だったんですよ。」
「そうだったんですか?」
「ものすごい水依存だったから…お風呂も禁止で入れなかったし…。」
水依存、と聞いてヒロ君のことを僕は思い出した。岡田さんが言っていた『水依存症』。
「入院する前は、1日中お風呂場に居て、口の中にシャワーを突っ込んでずっと水を飲み続けるんです。何時間も。トイレに行きたくなったらそのままその場で済まして。上から入れて下から出す、ってそんな生活。そうしないと生きて行けなくて。」
ノゾミさんは長いまつ毛を伏せながら言った。
「でも、良くなったのなら大丈夫ですよ。ノゾミさんは。」
僕がそう言うと、ノゾミさんは微笑んだ。
「ありがとうございます。…中村さん、前から聞こうと思っていたんですけど…。」
「なんですか?」
「中村さんは、生きていることに疑問を持つことってないですか?」
「疑問?」
ノゾミさんは両手をそろえて膝の上に置いた。
「ここで暮らしているうちに…患者さんたちを見ているうちに…生きるのって意味があるのかな、って思ったんです。そんなことを考えても無意味だって分かっているけれど。ここで暮らしている患者さんの半分以上は生きていく意味に何の疑問も持たなくて。寧ろ、持てなくて。生きることに疑問を持つこと自体を知らないまま生きているのって、悲しいなって…。」
ホールのほうで誰かの大声が聞こえた。多分、長谷川さんだろう。
「うまく説明出来ないんですけど…すみません。」
「いや、分かりますよ、何となく。」
ノゾミさんは僕の目を見つめた。綺麗な目をしているな、と僕は思った。
「ここの暮らしは、悲しいですよ。世の中の見えない部分で生きて行くっていうのは。何十年もここで暮らす人もいる。だけど生きる意味は多分、あるんだと思います。例え頭がおかしくなってしまっていても。自分の中で自分の世界を持っているから。逆に僕は、疑問を持つ自分のほうが悲しいんじゃないか、と思うときがあるんです。形のある確かな『意味』がなければ、生きていく意思を持てないなんて。」
「中村さん…。」
「気付けたのだから、大丈夫ですよ。何も気付かないまま疑問を持たないまま生きて行くよりは。そういうことだと思います。」
「…はい、そうですね。」
「ノゾミさん。幸せになってくださいね。…何だか僕も、うまく言えないけど。」
そう言うとノゾミさんは笑顔で応えた。
「ありがとうございます、中村さん。」

―no title―

季節がひとつ過ぎていった。それでもここの暮らしは何ひとつ変わらず、やはり時間の流れは感じられないままだ。ノゾミさんが言っていた、生きることに疑問を持つということ。自分が正気だと信じている僕らにとったら、生きるということに何かしらの目的が必要になる。それでも、そうではない人間も世の中の見えない部分にとても沢山存在している。
僕がここで暮らして思ったことは、自分がおかしいのか正常なのか、と確かな根拠がないと生きて行けない人間よりもただひたすらに呼吸をして、自分の世界のことだけを信じて考えて生きている人間のほうがきっと尊いんだろうということ。
風の吹くままに流れて行く雲のように、何もかもをそのままに任せてしまう事のほうが、僕らは難しいのだから。胸が痛む思いをしても、生きることを辞めてしまわないうちは時間は過ぎて行く。
誰も何も気にしないまま、毎日を迎える。

<END>

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