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松居大悟『またね 家族』

ー生き、づらいか?ー

申し訳ないくらいあたしに重ねてしまった
読みながら、その主人公の胸の内
もう自意識が溢れて止まらなくて
不器用で空回っていて
周りの人からすればもう
『めんどくさい』以外なにものでもない感じが

これって、あたしかな??

って何回恥ずかしくなったろう、勝手に。

やっぱり『家族』というテーマを置いても
いろんな形でそれぞれに存在しているし
線引きの仕方も大きく違うだろうから
あえて自分から話すことはないし
誰にでも共有できることではなくて。

分かってくれそうな人には話すこともあるけど
聞かれない限り口にすることではないし
聞かれたって誤魔化して逃げるくらいだし。

でも、そんな家族コンプレックスがここでは
痛快で、どこをとっても人間らしくって
主人公と著者を重ねて
『へぇー、松居さんってこうなのか』とか
著者のエピソードを聞いてみるみたいで
途中で混同してきてどっちがどっちだか分からなくなるくらい没頭して、
できればずーっと読んでいたかった。

それは、あたし自身のめんどくささも重ねて
『この主人公みたいにこう言いながらこう考えてるとき、あるある!』みたいな
勝手に自分のあるあるも引っ張り出して
ニヤニヤして恥ずかしくなったり嬉しくなったり、楽しんでいたからなのかもしれない、アトラクションみたいに。

人間の不器用さって、客観的に見ると
こんなにも楽しめてしまうのか、愛おしいな。
なんて、思って、あたしのこの自意識のあまりの下手くそな生き方も不器用さも愚かさも、
すごく醜いと自覚はしている(こういうところが余計だな)けど誰かにとって愛おしいものであったらいいな、なんて。この上なく紙一重な構造だけど、裏切られるために期待してしまいたくなる。

醜さと愛おしさの間を縫って、進んでいきたいな。

というか、そんなこと宣言しなくたって、きっとそれしかできないし、それしかしないじゃないか。生きづらくても、づらくなくてもとりあえずはまた、あたしはあたしをいきるほかない。それはたとえしんでも変わらない。 ♪あたし以外あたしじゃないの〜、どっかで聞いたことあるな、これ。


【余談】そういえば、緑さんが、海で溺れたあとに主人公が自分の顔を自撮りしていて気持ち悪かった、って言い放つ場面がすごく印象的だった(ざっくりだなぁ!笑)あたしはフラれたことしかないけど、なんだか言った側、言われた側どちらの気持ちも胸を突き抜けてきて(「分かりみが深い」というやつ)。とにかく主人公としては恥ずかしいんだろうけど、緑さんの言葉の鋭さが、なんとなくだけどすごく『正しさ』みたいな感じがした。何がどう正しいのか説明すると年が明けてしまうかもしれないので止めておくけど、と に か く、『自分以外のものすべてが正解』(自分だけが間違っている)みたいな絶望に突き落としてくれる。自分で勝手にそう受け取ってるだけだけど、その冷酷さに既視感ありありだったな。むしろ既視。既視というか、経験済み!

「余談」と書いておきながら、ここが一番ちゃんと「読書感想」文だったかな。




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