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博士の書斎のクッキー缶

80分しか記憶の保たない数学博士をご存知ですか。博士の愛した数式という小説です。覚えておくべき事項をメモにして体の至るところに貼っている博士の記述は、初めて読んだ中学生の私をギョッとさせたけれど、まっすぐに数学と彼の見える世界を愛する生き生きとした博士の身軽さはとても魅力的でした。日々の自分に納得して生きることに、記憶なんてさほど関係ないのかもしれない、と感じます。

そんな博士の書斎のクッキー缶には、博士の宝物がしまってあります。

宝物といえば

宝物といえば、先月しばらくアルバムを作っていました。スマホ用フォトプリンタinspicを買ったら、サイズ感がちょうど良くてノートにペタペタ貼って作りました。

3月の別れの時期は、忘れたくないたくさんの思い出や関係性を痛感する時期でもありました。それらを大切に思う自分の気持ちが、自分の中だけにあることが怖くなったのです。もしハードである自分がいなくなったら、消えてしまうから。大切な思い出は、スマホの中にあるだけでは、クラウドの奥へ流れていってしまうから。パソコンなどのバックアップを取っている感覚に近いかもしれません。終わった後は大事に抱えていなければならないものがひとつ減ったようで、肩の荷が降りた感覚でした。身軽。きっとこれから身一つでどうにかしていける、という、根拠はないけど確かな自信が湧いてきました。

アルバムといえば

アルバムといえば、小学生の時に見た東日本大震災のニュースで、アルバムを流されて嘆く人々のインタビューを見たことを覚えています。端末からクラウドに写真が送られ、「誰かが覚えていてくれる」ような現代では、少なくともアルバムが流されて悲しくなるようなことは減りますね。技術とデザインによって思い出は(強固ではなく)堅牢になってきています。

写真といえば

写真のことを、自分が遭遇したことを覚えておくために撮るのだと思っていました。でももしかしたら私たちは、忘れるために撮っているのかもしれない。「こんな写真撮ったっけ?」となることの、なんと多いことか。「そうそうこの時!」となることの、なんと多いことか。

いつでも思い出せると思えば、安心して忘れることができます。写真に残すということは消えていく思い出たちへの、追悼の儀式でもあるようです。

追悼といえば

追悼といえば、「人が死ぬのは2回ある、肉体的に死んだときと忘れられた時だ。(だから私たちはせめて故人を覚えていよう)」とか大嫌いです。人の死を他人が勝手に決めるなと思うし、忘れないことを人に要請しないでほしい。それは、大切な人を亡くした時の誰にも言えない静かな決意を土足で踏み荒らしているようで。

それに、残された人に必要なのは、忘れてはいけないという決意ではなく、忘れてもきっと思い出せるという自分の記憶への信頼なのではないでしょうか。

思い出すといえば

思い出すといえば、高校生の頃の私、rememberの単語を見て、英語では「思い出すこと」と「覚えていること」が、日本語より近くにあるのだなぁと思ったことを覚えています。一方で、

- 覚えていることは思い出すことができない
- 思い出せるならば安心して忘れることができる

以上、日本語における「思い出すこと」と「覚えていること」は正反対に位置するのかもしれません。

単語と言えば

今日は各章を、1単語分だけ記憶を受け継ぐ形で書いてみました。深くには行けないけれど、いつもよりいろんなところに行けた気がします。お茶とクッキーでもお供にして読んでみてください。

あ、クッキーといえば

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