水路の記憶
母から聞いた話。
母がまだ子供だった頃、朝起きると玄関で靴や下駄が水に浮いていた。大雨で近くのドブ川が溢れたらしく、水が膝の辺りまである。
雨はもう上がってすっかり晴れていたので、外へ出てみたら、まだ幼い叔母が後からついてきた。
二人で近くのドブ川の方へ行くと、辺り一面が水に浸かっていて、どこがドブかも判然しない。見慣れた場所の見慣れない光景に、「わぁ!」と喜んで歩き回っていたら、叔母がドブにはまって溺れ始めた。
慌てて祖母を呼び、叔母は無事に救出された。ただし、汚い水を随分飲んだらしい。それで家に帰ってから祖母が正露丸をもりもり飲ませた。腹を下すのを事前に抑える意図だったろう。
叔母は正露丸の匂いで気持ちが悪くなったのだと云う。
この話を母から二度聞いた。
一度目はまだ幼稚園に通っていた頃だったと思う。二度目は昨年で、帰省した折に思い出したように語り出した。
二度とも話しながら笑っていたから、叔母には気の毒だが、母には楽しい思い出なのだろう。
ただ、そんな大きなドブ川は、母の実家(祖父母宅)の近くにない。近くどころか、よほど遠くまで行ったって心覚えがない。
事によると、母の思い込みなのかも知れない。
「あの家の近くにそんなドブ川があったかいね?」
「昔はあったのよ。家の前の細い道を左に行ったら、病院の方に行く広い道があるでしょ? あそこが元々……」
そう聞いた途端、鉢巻をしたおじさん達がスコップを持って作業している光景が浮かんだ。
「……わし、その埋立工事、見たのぉ」
「えぇ? まだ生まれる前でしょう?」
「いや、抱っこされて行って見た。確かに見た」
みんなが自分のために何かの作業をしてくれているように感じたのも覚えている。
「そうか、あの時埋めてたのはあの道じゃったんか……」
自分は古い記憶が繋がって随分気分が良かったけれど、母はいつまでも「生まれる前だと思うけどねぇ……」と、釈然としない様子だった。
よかったらコーヒーを奢ってください。ブレンドでいいです。