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百卑呂シ随筆

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#仕事について話そう

山羊男

 商品の説明動画を作ることになって、撮影のために高松へ行った。当時付き合いのあった広告代理店が高松の会社で、ローカルタレントを手配してくれると云うから、こちらから出向くことにしたのである。  もう十年以上昔のことだからあんまり判然しないけれど、名古屋から新幹線で岡山まで行って、そこからマリンライナーに乗り換えて瀬戸内海を渡ったと思う。  岡山に着くまでの間、広告屋から事前に上がって来た台本がどうも心許なかったので自分で書き直した。岡山から先はやることがなくて、窓の外の海を眺め

萩の月

 義父母が東北旅行の土産に萩の月を買ってきてくれた。萩の月は美味いから大いに好きだ。  以前、栃木の土産でこれと似た菓子を覚えがあるけれど、名前が思い出せない。  パスタ屋の店長をしていた頃、店長の一般知識があんまりなさすぎるので、エリアマネージャーから宿題を出されたことがあった。各店長に都道府県を割り当て、その県について調べたことをレポートにまとめて出せと云うのである。  自分には栃木県が当たったが、栃木のことなんて何も知らない。行ったこともない。  ただでさえ忙しいのに

しきたりと肉

 出張の帰りはいつも、駅のコンビニで弁当とビールを買って、新幹線で飲み食いすることに決めている。  先日、そのつもりでコンビニへ行ったら、店内が随分ごった返していた。  混雑はいつものことだが、この日は自分の荷物が多くて、どうもこれを持って店内をうろつくのは大変なように思われる。  どうしたものかと逡巡したけれど、迷っていたって食事とビールにはありつけない。出発時刻が迫るばかりである。仕事で疲れたのに、飲まず食わずで帰るのは、いよいよつまらない。それで決死の覚悟で入ることにし

紛糾

 パスタ屋で店長になって、じきに首都圏の店長会議があった。昔のことだからあんまり判然しないけれど、全部で五十人ぐらい集まったと思う。店長会議に出るのは初めてで、様子がわからないから結構早めに行った。  時間を潰そうと思って近くのマクドナルドへ入ったら、同じブロックの先輩店長が三人ばかり集まっていた。 「お、百。来たか」と竹村さんが言って手を振った。  竹村さんは新卒の頃に世話になった元上司である。竹村さんの他には、白田さんと奥山さんがいた。白田さんはブロック内で一番古株である

縁の地、グレート・ムタ

 小学生の頃、地図帳で近畿地方の頁を開くと、いつもパッと目につくのが吹田と枚方だつた。  後年、その内の吹田に住むことになった。一度離れてからも吹田は心の拠り所で、数年後に再び舞い戻った。何だか因縁めいたものを感じていたけれど、同様に目についていた枚方へは特に何の縁もないまま今に至っている。だから吹田の縁も、別段地図帳とは関係ない、ただの偶然に違いないと思う。  先日、娘が学校で使う地図帳がコタツの上に置きっ放しだったから、そんなことを思い出しながら開いてみた。  こちらの

注意喚起

 職場で、昼食後に給湯室で歯を磨くことにしている。他にもそういう人があるから、時間をずらして行く。恐らく、昼に給湯室を使うのは自分が最後だろう。  その際に、どうもガスの元栓が気になる。いつも開いたままになっている。小学校の時分、同じクラスにガス爆発に遭った子がいたから、元栓の開き放しが怖くていけない。だからその都度占めるのだけれど、他の社員はそんなことにはお構いなしで、いつも開け放している。元栓に対する意識が低すぎるように思う。  ある時、元栓付近に「使った後は元栓を締め

手書きの書簡

 職場に届くダイレクトメールで、立派な封筒へ宛名を手書きされたのがたまにある。  そういうのは開けてみると中身もやっぱり手書きで、DM一つに随分手間を掛けるものだと感心するけれど、肝心の内容は画一的で別段興味も惹かれないから斜めに読んで捨ててしまう。  もっとも、内容が刺さるかどうかはタイミング次第だから開封させただけでもダイレクトメールとしては合格だろう。  今の職に就く前は製造派遣・業務請負の営業をやっていた。  まずはメーカーの担当者にダイレクトメールを送ってから電話

異世界アパート

 20代の終わりに再び会社員になってからは、木寺の住まいが帰り道にあったものだからちょいちょい寄っては駄弁った。  木寺はその頃、風呂なし・共同トイレの古いアパートに住んでいた。そんな物件は当時(2000年)としても珍しく、自分は何だか学生寮を思い出して、行くたびに懐かしい気分になっていた。  大学を出て以来、知らない土地へ行って一人で盆も正月もない生活をしてきたけれど、こういう学生時代の延長みたいな生活だってあり得たのだと思ったら不思議な心持ちがしたのを覚えている。  木

半月

 最初の就職先はチェーンのパスタ屋で、25の時に店長になった。まだ店のバイトと年が近かったから、大学の後輩に接するみたいな感覚で存外気楽だった。  ある時、新しく雇った女子高生に紅茶に入れるレモンをスライスさせた。ややあって、できましたと云うから見てみると、ほとんどが半月みたいな形になっている。まともに丸く切れたのがほとんどない。随分不器用な女子だと感心した。 「おい、まじかよ、丸く切ってくれよ」 「えー! 包丁が切れないんですよ」 「そういう問題じゃないだろう。何だ、こ

無人駅

 二十年ほど前のこと、案件の入札で或る自治体へ行った。随分な山奥で、電車で二時間ぐらいかかったように思う。  入札自体はほんの20分ほどで終わった。結局落札はできなかったから後は何の用もない。街で五平餅を食って、少し見物もして帰りの電車に乗った。  再び山の中をごとごと走って、しばらくすると小さな駅で下ろされた。車掌が車内アナウンスで、ここで乗り換えろと云う。  自分の他に二十人ほどの乗客が下りて、電車はじきに元来た方へ引き返して行った。  プラットホームが一つあるきりの

呪文

 社会に出て一番初めは、チェーンのパスタ屋で働いた。  店舗に配属されて1週間ぐらいで、先輩の西村さんから包丁の使い方を教わった。最初に切ったのはムラサキキャベツだったのを覚えている。  西村さんにお手本を見せてもらった後、「こうですか?」と言ってトントンと包丁を下ろしていたら、三回目のトンで痺れるような痛みが走り、拇指の先の肉が体から離れた。  驚いて、こんな仕事に就いたのがやっぱり誤りだったと職場を大いに恨みながら、店の裏で止血していたら、年輩のパートさんがやって来た。

悪意、偽物

 今の職場に入って間もない頃、色んな要因が重なって随分居心地の悪い思いをした。  職場のメンバーの半数以上がこちらを敵視して、「全体、あの野郎はいつまでいるつもりだろうね?」などと聞こえよがしに言ってくるのだけれど、こちらも辞められる状況ではないから、とりあえず聞き流していた。 ※  当時自分が身に着けていた腕時計は、ある高級ブランドの物によく似ていた。似ているだけで別段高級ではなかったから扱いは雑で、暑い日には机上に外して放置したりしていた。  ある日、仕事を終えて帰

幽霊、放屁、残業

 自分の職場では以前、遅くまで残業する人が数人あったけれど、今はほとんどいなくなった。大概みんな、定時早々に退社する。  自分は仕事にキリをつけたら、ついでにあれもキリをつけてしまおう、これもやってしまおう、と繰り返してしまうものだから、ついつい退社が遅くなる。それでいて特別に成果が出ているわけでもないからつまらない。  ただ、この職場にはどうやら幽霊がいるとちょいちょい聞いており、一人で遅くまで残るのは何だか気持ちが悪い。それでなるべく最後の一人にならないよう気を付けてい