猪メモリーズⅡ~”グラップラー刃牙”にあこがれ、烏帽子岳最強を目指した男の話~


0.Introduction


先日、”猪メモリーズⅠ”という、短編小説まがいのエッセイを書いた。


Ⅰを書いた以上は、Ⅱも書かなければいけない。

なお、烏帽子岳(えぼしだけ)という山の名前は、登場人物と同じく仮名であることを先におことわりさせていただく。

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1.森田の野望


高校2年生の秋、学校の昼休みだった。

机に突っ伏して、午後の授業に備えるべく必死に仮眠をとろうとしていた俺のもとに、ドスドスと足音を響かせてそいつはやってきた。

「竹井(仮名)君、ちょっといいか」

いい具合にまどろんでいた俺の頭脳は、そいつの野太い声で強制的に覚醒させられた。
重い頭を持ち上げて声の主を見上げる。

ラグビー部の森田(仮名)だった。
180cmを優に超える身長に、分厚い胸筋。
先立っての県大会終了後に同部のキャプテンを襲名した、200人以上はいる同学年の中でも指折りの偉丈夫(マッチョメン)だ。
俺とて先日にコーラス部のキャプテンを襲名した身だが、体育会系の極北的部活動の長を前にすると、文化部の俺が同じキャプテンを名乗るのは、なんだか憚(はばか)られるような気がした。

そして、互いの部活動の内容がそうであるように、俺とこいつ、個人においても接点はほぼなかった。クラスだって一度も一緒だったことはない。
そんな森田が、俺に何の用だというのか。

「竹井君、”グラップラー刃牙”はもう全部読んだか」

森田は唐突に会話のタックルを切ってきた。

グラップラー刃牙(バキ)。
多少マンガに明るい男子諸兄ならばそれだけで説明不要の、格闘マンガの金字塔だ。


個人で一国の軍事力に匹敵する格闘能力を有する、”地上最強の生物”の異名を取る男、範馬勇次郎(はんまゆうじろう)。
その血を分けた息子の刃牙(バキ)が、最強の父を超えんと修行を積み、数多の猛者達と激闘を繰り広げることで成長を重ねていく、一大格闘巨編だ。
男子たるもの一度は読破すべきマンガを挙げよ、と言われれば、そのカテゴリの十指には入るだろう。
(ちなみに、俺がもしそのようなマンガを選ぶなら、寺沢武一先生の”コブラ”、そして荒木飛呂彦先生の”スティール・ボール・ラン”を推す。ベクトルは違うが、どちらも掛け値なしに、男の教科書と呼ぶべき傑作だ)

俺は以前、その”グラップラー刃牙”のコミックス全42巻を、同じクラスでラグビー部の吉田(仮名)から何分割かにして借り受けていた。
曰く、部室の備えものだから早めに返すようにとのことで、睡眠時間を削って一気に読破したものだった。当然、とっくに返却も終えている。

「……ああ、自分のとこの吉田から貸してもらって全部読んだよ。とっくに返してるはずだけど、まずかった?」

相手は、部外へのコミックスの持ち出しそのものに憤っているのではないか。
そう懸念しながら俺は答えたが、俺の懸念を察したのか、森田は手のひらでこちらを制しながら言った。

「いや、読んでんならいい。俺が話したいのはそういうんじゃなくて、内容なんだよ、内容。全部読んだってことは、”夜叉猿”も当然わかるよな?」

夜叉猿。もちろん知っている。
バキ世界の飛騨山脈に生息する、体長2m超の二足歩行の大猿だ。
江戸時代の昔から数々の武芸者を返り討ちにし、作中ではツキノワグマを素手で仕留める大男の一撃にもびくともしなかった、人呼んで”飛騨山脈最強の生物”だ。もちろん、架空の生物だが。
主人公のバキは飛騨山脈での山ごもりを経て、死闘の末に夜叉猿を打ち倒す。そのプロセスを経て、バキの戦闘力は飛躍的に成長を遂げたことから、夜叉猿戦はバキのターニングポイントの一つに数えられるだろう。

「ああ、わかるよ、夜叉猿。あの飛騨山脈のでっけえ猿」

俺が答えると、森田は我が意を得たりという風に、太い腕を組んで大きくうなずいた。

「そう。あのバケモンみてえな夜叉猿をブッ倒したことで、バキは飛騨山脈最強の男になったわけよ。で、本題はここからなんだけど」

森田は続ける。

「学校近くに烏帽子岳って山あんじゃん?最近あの辺で、でっけえイノシシが出て近くの畑を荒らし回ってるらしいのよ」

おいちょっと待て。
バキ談義の流れじゃねえのかよ。
”飛騨山脈の夜叉猿”というファンタジー全開の話が、一瞬にして”烏帽子岳のイノシシ”という卑近な現実感あふれる話にスイッチするなんて誰が思うか。

というか、森田。

お前、まさか。


「そこでだ。バキと同じく地上最強を目指す俺としては、その不届きなイノシシをこの手でブッ倒して、まずは烏帽子岳最強の男になろうと思うわけよ」


野郎、やっぱりそう来たか。


本気か、と訊くのは野暮だった。
これがシャレや冗談なら、何もクラスの違う俺なんかでなく、自分のクラスメイトなり部活のチームメイトなりを相手に聞かせればいいのだ。
第一、目の前の森田が放つ気迫(オーラ)は完全にマジなやつだ。自分の発言内容に何の恥じらいもためらいも持たないその姿勢は、いっそ真摯と言っていいほどに大マジだ。
本気なのは間違いない。正気なのかはともかくとしても。

「でもな。俺はこれまで、生でイノシシを見たことがない。
そこで竹井君、君の意見を聞きたいのよ。竹井君はイノシシを見たことがあるって吉田に聞いてるから、ぜひ参考に聞かせてくれ。本物のイノシシが実際どんなもんなのかを」


なるほど。
何故、何の接点もない森田が俺のところに足を運んだのか、これで合点がいった。

確かに俺は、バキのコミックスの貸し借りの最中、イノシシという獣がいかにマッスルパゥアー全開のクリーチャーなのかについて、吉田に話したことがあった(俺が和製エクソシストに成り果てた件は伏せたが)

大多数の生徒が学校近隣の住宅地から通学する中にあって、俺は15km以上は離れた僻地(へきち)からチャリンコで通う、選りすぐりの田舎者だった。
シカやイノシシを何度も目にしてきたような田舎者で、しかもグラップラー刃牙を全巻読んだ者など、全校中を探しても俺しか存在しないだろう。
ちなみに、田中はその時教室にはいなかった。もっとも、田中からの又聞きでは情報不足だと思ったからこそ、森田はこうして、ほぼ面識のない俺のもとに単身やってきたのだろうが。


ともかく、森田は本気だ。
男が本気である以上、正気かどうかはさほど問題ではない。


ならば、こちらも誠意を尽くして応えてやるのが、筋(スジ)というものだろう。

2.Alright, let me give you a boar lecture.


俺は立ち上がり、教室前方の大黒板に向かった。
白いチョークを手にとり、黒板の3分の2を占める大きな楕円を描く。
楕円を描き終わると、森田の方に振り返り、チョークを黒板に打ちつけた。

「まず、これがイノシシだ。
個体差は当然あるとしても、でっけえイノシシだと言うんならこれくらいは見積もっていたほうがいいと思う。重さもまちまちだけど、100kg以上は優に超えてくるのはまず間違いないな」

教室前方にいた数人の男子生徒が、何が始まったのかとこちらに視線を注いできた。
森田は腕組みと仁王立ちの姿勢を崩さず、無言で聞き入っている。

「その体は靴磨きのブラシみたいな灰色の剛毛と、上物の財布にも使われるくらいの丈夫な皮でコーティングされている。
その下を覆うのは真っ白な脂肪層、さらにその下はすべて高密度の筋肉の塊だ。地盤も肉もえぐる鋭い牙も持っている」

ギャラリーは無言のまま、俺の話に耳を傾けている。
森田の姿勢と表情はそのままだが、オーラが一瞬だけぐらついたのを俺は感じた。

「それからイノシシの走行速度は、時速40kmくらいだと聞いたことがある。
イヌの全力疾走をイメージするとわかりやすいと思うんだけど、普通のイヌの時速が30~40kmだから、イノシシもそれと同じか、下手したらそれ以上のスピードでこっちに迫ってくるってことになるな。
しかもそのスピードで迫ってくるのは、さっきも言ったとおり、剛毛と厚い皮でコーティングされた、100kgは確実に超える筋肉の塊だ」

「マジかよ」
ありありとイメージできたらしいギャラリーの一人が、呟きをもらした。
仁王立ちの森田の片膝が、わずかにガクンと崩れた

「わかるか?黒板に描いたこいつが、全身筋肉の砲弾になって森田君に突進してくる。
森田君はまずこれを受け止めて、その上でこいつにダメージを与え続けて、絶命もしくは戦闘不能にさせないといけない。それも全部素手で。
これを実現しようとするなら、そうだな。重さには相当差があるけど、そこら辺をゆるく走ってる軽トラを受け止めて、さらに破壊するだけの力と技が必要になると思う」

「キツいな」「ヤベえよ」
ギャラリーの顔が曇る。
森田の膝は崩れたままだ。

一呼吸入れて、俺は話の総括に入った。

「要するに、生身でストⅡのボーナスステージを再現できるか、って話だと思うわ。
それこそバキで言うなら、1巻の愚地独歩(注:おろちどっぽ 作中の空手団体の総帥)が実演していた、立てられた土管の中に入って、それを素手で破壊し尽くすくらいのことができれば可能性はあると思う」


「いや、無理。ムリだわそれ」
ギャラリーが天を仰いだ。


俺の森田に対するレクチャーは終わった。
俺が語れるだけのことは、すべて語り尽くしたつもりだ。
あとは、森田がどう判断するか。

片膝が崩れた姿勢のまま、森田は微動だにしない。

たっぷり5秒は経っただろう。

すっと姿勢を戻すと、腕組みのまま、ゆっくりと二度うなずいて、森田は言い放った。



「――要検討だ!!!」



くるりと踵(きびす)を返すと、もと来たときとおそらく同じように、のしのしと大股で、森田は教室から去っていった。
黒板前には、唖然とするギャラリーと、俺だけが残った。


3.男として生まれたからには、誰だって


森田が去るのを見届けると、俺は黒板消しに手を伸ばした。次の授業が始まる前に、自分が描いた黒板の楕円を消さねばならない。
丹念にチョークの白線を消しながら、ふと、バキの登場人物”徳川光成”の名ゼリフを思い出した。

地上最強を目指して何が悪い!!!
人として生まれ男として生まれたからには
誰だって一度は地上最強を志すッ
地上最強など一瞬たりとも夢見たことがないッッ
そんな男は一人としてこの世に存在しないッッ
それが心理だ!!!

ある物は生まれてすぐにッ――――ある者は父親のゲンコツにッ
ある者はガキ大将の腕力にッ
ある者は世界チャンピオンの実力に屈して
それぞれが最強の座をあきらめそれぞれの道を歩んだ

「……要検討、か……」

誰にいうともなく、俺は森田が残した言葉を呟いた。

森田にしたところで、自分がいかに稚気(ちき)じみたことを考えているのかは重々承知していただろう。
俺にイノシシの知識について教えを乞うたことも、言うなら仲間内でのネタ作り、ウケ狙いが主な目的だったはずだ。



しかし、それでも、なお。



やはり森田は本気だった。
ウケ狙いのポーズを装っていたとしても、その下には地上最強への純粋な憧れを、確かに秘めていたのだ。たとえそれが、欠片(かけら)ほどの大きさであったとしても。

地上最強を目指すバキと、数多の格闘士(グラップラー)たちのように、自分も地上最強を目指したい。
日々己の肉体を鍛え抜く一人の男として、自分もその夢に殉じたい。

そう、純真に想ったのだ。

だからこそ、現代日本の高校生という自身の立ち位置を踏まえた上で、なお地上最強への道をたどれないか模索した。
その足掛かりとして、烏帽子岳のイノシシに目をつけたのだ。

その想いに対し、俺も誠心誠意を込めて、自分が持てる限りの知識を伝えたつもりだった。
しかし、それは森田が持つ地上最強への憧れを、10代後半にして未だに森田が持つ少年の心、その最後の部分を、踏みにじる結果にしかならなかったのではないか。

森田が言い放った”要検討”の意味は、知る由もない。
だが、その検討の結果、森田はつまらない常識に囚われた、つまらない”オトナ”になってしまうのではないか。
俺の言葉が、徳川光成の言うところの”父親のゲンコツ”に、つまり早々に森田の夢を摘んでしまうファクターになってしまうのではないか。


チョークの白線を消し終えた俺の心は、黒板のようにまっさらというわけにはいかず、割り切れないものが残り続けていた。



それきり、森田とは特に付き合いが生まれることもなかった。


俺は高校を卒業し、地元から離れていった。



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4.あきらめの悪い男


3年後。
20歳のときに、成人式に合わせて高校の同窓会が開かれた。

飲み慣れない酒を飲んで気を悪くし、風に当たろうと会場の入口付近にいた俺に、野太い声をかける奴がいた。

「よお、竹井君。久しぶり。覚えてるか?」


森田だった。


口髭を生やした分、顔つきに精悍さが増している。
それ以上に目を引いたのは体つきの方だった。着ているスーツが窮屈に見えるほど、上半身に筋肉を満載している。
以前よりも一回り以上は分厚い体になったのではないか。

「知り合いがいなくてさあ。みんな中にいるのかな」

突然現れにこやかに話しかけてくる森田のおかげで、俺の酔いは急速に醒めていった。

「あ、ああ。だいたいの人はもう中にいるよ。ていうか……厳(いか)つくなったな」

俺がとっさに言えた言葉としては、それがせいぜいだった。

拙(つたな)い言葉ではあったが、俺の言わんとするところを汲んでくれたらしい。
森田は気を良くしたように一笑すると、会場内へ入ろうとした。


瞬間。




3年前の思い出が、俺の脳裏にフラッシュバックした。


「森田君!」

思わず、呼び止めた。
森田は立ち止まり、怪訝そうにこちらを振り返る。


「その、イノシシは……検討中か?


唐突に投げられた言葉に、森田はぽかんとしていた。

しかしほどなくして、「ああ!」と声を上げると、ニッカと白い歯を見せて、こう答えた。




「当然!”今も”検討中だ!!!」



それだけ言うと、会場に向き直り、軽く手を上げながら、森田は会場内に消えていった。


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それきり、森田との接点は今度こそなくなった。

なくなったが、俺は今でも覚えている。

烏帽子岳最強を目指した男、森田。

あいつは、世間の声に折れることなく、己の夢と真剣に向き合う、まぎれもない好漢(ナイスガイ)だった。