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1つだけもらえた「スキ」にこそ価値がある。


「1つしかつかなかった」とか「1つでもついたことが嬉しい」とか、そういう次元の話じゃない。




そういうスキは誇っていい。

たぶんそれは、本気(マジ)のスキだ。



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note、というかもっと広く、SNSはじめたばっかのトーシロが承認欲求とどう付き合っていくかって話なんですけどね。
前回、承認欲求の濁流に呑まれたトーシロが、酔った勢いで記憶トバして本音を書きなぐっていた話をさせてもらいました。一切シラフで書いた本文のほうが余程アレだったのは置いておくとして。


今回はその続き、その時思っていたことと今の考えの違いについて話させてもらいます。

たぶんこれは、とっくに名が売れてるインフルエンサーとかが言うより、ガチの無名の人間だからこそ言える話だし、言っていい話だと思うので。



で、あのクダマキ全体についての総評として、まずは一つ。


気が早い。

焦りすぎだ。noteはじめて4~5日、上げた記事3つ、しかも内容は全部自分語りでこれを言うなんて、我ながら大物すぎる。
そもそも、記事の内容がどうとか以前に、まだ誰もお前を認知していない。いいか、何事にも時間は必要だ。木の根っこにウサギがぶつかるのを待ち続けて一生を終えたあのジイさんを見習え。


とはいえ、シラフの今読み返してみても、だいたい考えてることは同じですね。同じ人間が書いたんだからそうに決まってるんですが。


ただ、今読み返してみて”やっぱり違うな”と思うのは。


でもね、やっぱり俺も人の子だからさ、できることなら他人にチヤホヤされたいと思う。思ってしまう。きったねえ話だけどやっぱりそう思ってしまう。
そのくせ、チヤホヤはされたい。

浅ましいよなあ。
みにくいよなあ。
きったねえよなあ。
われながらイヤになっちまう。
でもしかたねえよ、本当の本当の本音だもん。


ここですね。ここがだいぶ変わった。

後者なんか”本当の本当の本音”だったなのに、ここもかなり違う。日進月歩と見るのか朝令暮改(ちょうれいぼかい)と見るのかはともかくとして。


じゃあ、何が変わったのか。

たぶん、”チヤホヤ”の定義ですね。
量はもちろんうれしいけど、それ以上に純度をありがたいと思うようになった。

まず、このクダマキで言ってる”チヤホヤ”ってのは、です。スキにせよフォロワーさんにせよビューにせよ、とにかく数。

ただ、最初から自覚しているとおり、書いてることはしょせん自分語り、自己満足なんですよ。それも、誰にも知られていない名無しの、客観的にはモブの自分語り。
それでいきなり数を稼ごう、不特定超多数のnoteユーザーに読んでもらおうっていうのは、さすがに無理がありすぎる。さっきも言ったとおり、そもそもほとんどの方に認知されてもいませんので。

もちろん、どの記事も自分なりに文章は練り上げているつもりです。
練り上げているつもりですが、その練り方の根本は、結局”自分が”読んで楽しいか否かなんですね。自分が読んで笑い、自分が読んで泣き、自分が読んで物思いにふける、そのための文章。
それを悪いものだとは思っていません。クダマキにも書いたとおり、飽くまでも(少なくとも今のところは)自分を自分の文章でもてなすことが一番の目的ですので。その点について、悪びれるところは一切ありません。


ただ、自分第一のエゴが相当根深い分、その思いって大なり小なり、文章のいろんなところでにじみ出てくると思うんですよ。
部分的に言えば、誰もわからない小ネタを元ネタの説明もなしでぶっこんだり、総体的に言えば妙に濃い、もっと行きすぎてクドい文章になったり。

結果として、一読してわかりづらい、共感可能性の低い、総じてエモくない文章ができあがる可能性が高い。
個人的にはエモさにあまりプライオリティを感じてはいませんが、わかりやすさというニュアンスも含めて、エモい文章がウケやすい/最後まで読んでもらえやすいということは、動かしがたい事実だと思います。

(ところで、エモいってこういう、共感可能性とかのニュアンスで合ってるんですかね?この言葉は個人的にかなり苦手なんです。エモさこそ正義みたいな風潮がありながら、この言葉はあまりにも本来の意味でのバズワード、あいまいな言葉に過ぎる)



その伝でいけば、僕が今後noteを半年、1年、2年以上と続けていったとしても、フォロワーさんやスキとかの数が順調に増えていくことはあまりないのかもしれません。

もちろん、note歴1ヶ月未満の今こんなことを言うのはそもそも時期尚早ですし、ウケる/読まれる文章・ネタの分析であるとか、投稿テーマを散逸させずに一貫すべきなのではとか、詰めきれていないファクターが多すぎることも承知しています。

ただ、根本的な姿勢として強固なエゴ、究極的には読み手よりも書き手の自分が楽しければそれでいいというエゴがある限りは、何年続けようが数が得られないままそれで終わる可能性はけっこうあるんじゃないかなと思います。さっきも言ったとおり、こういうのは結局、にじみ出てしまうものでしょうから。


だからこそ、ですよ。


そういうエゴのもとに書かれた、しかも書き手が名無しの文章を読んで、好ましく思ってくれた人がいるということは、大げさでしょうけど奇跡に近いんじゃないかと。


よくよく考えてみると、スキを押してもらえるまでに4つのプロセス、というかハードルがあること、そしてどのハードルも相当に高いということに気づいたんです。

そのハードルというのが、以下。


①無名の自分が上げた記事の存在が知られること
②読みはじめてもらえること
③最後まで読んでもらえること
④スキを押していただけること

①無名の自分が上げた記事の存在が知られること
これについては本当に不思議なんですよ。自分の記事の存在を知ってもらえること自体が。
もちろん、これまで記事を読んでいただいた多くの方は、タイムラインの新着でたまたま目にして来られたんだろうと思っていますが、それにしたってすぐ埋もれてしまうものじゃあないですか。
その埋もれてしまうまでの短い時間のなかで、さらに埋もれたあと、自分の上げた記事が他の方の目にとまる確率ってどのくらいなんだろう。いくら読み手の分母=それなりに多いnote利用者だからといっても、無尽蔵に増え続ける総記事数には追いつくことは、あたりまえだけど未来永劫にありえない。
ありきたりですが、砂漠でゴマ粒が目にとまるのを期待するに等しいことなんじゃないですか、これは。

②読みはじめてもらえること
これもキツい。僕も書き手であると同時に読み手ですから、これはよくわかります。
日頃からメジャーマイナー問わずいろんな書き手さん方のところに飛んでいってますが、記事一覧をザッピングして、そのうえで読んでみようと食指が動く記事って、意外と少ないんですよ。
最近は(自分にとっての)埋もれた良記事を探すためにあえて地味なタイトルやスキの少ない記事等を読んでいますけど、そういう動機づけでもない限りは、時間にして1秒未満、パッと見で気になった記事しか読もうとは思わないですよね、普通。

③最後まで読んでもらえること
これが僕にとっては一番キツいかもしれません。
コンテンツは無名の自分語り、文体は読み手さんでなく自分にとってのおもしろさが第一、そしてどの記事もアベレージ3000、あるいは4000字以上はいくかもしれない長文。
総じて、エゴの塊でしかない。気づけば自分でガンガンハードルをブチ上げている。

その意味では、少し前に上げたソフトテニス部シリーズは記事として上げるのに相当勇気がいりました。


いかに自分をもてなすことが第一とはいえ、誰も知らない人間の14000字にわたる自分語りを、人様に読んでもらう記事として扱っていいものなのかと。

やむなく記事を6分割にしたものの、読み手目線だと知らない人の分割長編エッセイはそもそも読もうという気にならないですよね。
それも最初からわかってはいました。それでも、14000字にもなる無名の自分語りを丸のまま上げることのほうが、よほど暴挙というか、読み手さんをないがしろにし過ぎた行為だと思ったんです。

退くも地獄、進むも地獄といった気分でしたね。正直言って、あれは書きあげるよりも投稿ボタンを押すことのほうがキツかった。


もっとも、そんな壮大な自分語りでもスキがいただけたからこそ、今回の話につながったのですが。

④スキを押していただけること
3つのハードルを全部クリアして、しかも読み手さんの感性に自分の記事がヒットするかどうかですね。
正直、ここまでくると③で終わっても十分だと思えてしまいます。



以上4つの、どれも相当高いハードルをクリアして、自分の記事を”良い”と思ってくれた。



その結果が”スキを押す”という行為なのだとしたら、これ以上高純度のスキは存在しないのではないか。


エゴの塊たる自分の記事を肯定してくれたこの行為を、チヤホヤと言わずしてなんと言うのか。



先に述べたソフトテニスの話につけてもらった、数少ないスキを眺めているうちに、そんなことを思ったんです。
その時に、クダマキの消化できていなかった部分が消化されたとも感じました。

せめて俺は、自分の自分語りを最後まで聞いてくれて、それでもスキを押してくれた人には、本当にありがたいと感謝を捧げたい。

自分のなかで、どこか上っ面(うわっつら)の言葉だと感じていたこの部分が、やっと自分のものになったな、と思えました。

どこの馬の骨ともわからん俺の、なっがいなっがい自分語りを聞いてくれて、それでもその自分語りが気に入ったって言ってくれたその感性がたまらなくスキなんだよ。

前から抱いていたこの気持ちを、より深く噛みしめられるようになりました。


言っても、あのクダマキは今でもほとんどが本音ですので、当分は飽くまで自分のために書かせてもらうつもりです。
読んでもらう以上はより読みやすい、楽しんでもらえる記事にしたいという、読み手さんにより添う気持ちも芽生えてはいますが、それはそれとして。

とりあえず、すでに十分にチヤホヤされているという自分にとっての真実を噛みしめながら、今後もいろいろ書き散らかせてもらいます。

以上です。SNSトーシロの話につきあっていただいてありがとうございました。