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いつもケツには文庫本(あるいは、趣味としての読書について)。



「この辺の人じゃないでしょ」

唐突にかけられた女将の声に、ページをめくる手が止まった。

ここは、職場近くの喫茶店。日替わりでランチを出すこの店に、俺は三年近く通い続けている。
昨日今日の一見客ではない男に、なぜそのような問いかけをしたのか。目を丸くしたままの俺に、女将は言葉を付け足した。

「ああごめんなさいね。出身はこの辺じゃないでしょ、って言いたかったのよ。本当は」

「いや、郷里(クニ)はここですよ。〇〇県です。長いこと東京に居たりもしたけど、元々はここなんです」

「あら、そう」

今度は、俺が問い返した。

「何で、そう思ったんで?」

「うん、なんとなくね。違うなって思ったのよ。雰囲気がね」

「雰囲気」

鸚鵡(おうむ)返しにつぶやいたあと、俺は笑った。女将の言葉に思い当たる節が、何一つなかったからだ。
くたびれたスーツにネクタイの格好でひとりメシを食いに来る、近くの会社の勤め人。それが、俺だ。そんな格好の客など、この店の常連客にはいくらでもいる。現に、店の中にいる客の半分はそんな風体の男たちだ。
頭の中に浮かんだことを、そのまま口にした。

「よくわからんですねえ。僕も他の人たちと同じでしょう」

「うーん、あたしもうまく言えないんだけどね。やっぱり”それ”かねえ」

言いながら女将は、俺の手元を。
指をしおりにしたまま、読むのを中断している文庫本を、指差した。

「いっつも読んでるじゃない?自分で持ってきた本。そういう人、お兄さんしかいないからね。だから印象に残ってるんだと思うわ。ほら、周りを見てごらんなさいよ」

女将に言われるまま、俺は店内を見回す。
客のほとんどは、俯いてスマホをいじっている。年配客の何人かは備え付けの新聞やマンガを読んでいるが、自前の文庫本を読みふけっているのは、確かに俺しかいなかった。

「ね?お兄さんしかいないでしょ、本読んでる人なんて。店の方からすると印象に残るのよ、そういう人」

なるほど、確かに珍しいとは思う。しかし、それでいきなり出身が違うということにつながるのは、いささか飛躍しすぎではないか。
女将に疑問を伝えると、笑いながら言った。

「だから、あたしにもよくわかんないのよ。自分で言っといて悪いけどね。やっぱりアレじゃない、日頃から本を読んでるからじゃないの?ほら、よく言うじゃない。内面は外ににじみ出るっていうか、そういうの」

「ははは、僕ぁそんなにアタマ良さそうに見えるんスか」

「アタマ良さそうな感じとも違うけどね」

ずっこける俺を差し置いて、女将は真顔で続ける。

「やっぱりなんか違うわよ。この辺の方言(ことば)をしゃべってても、中身は違うわね。人と違うこと考えてそうな感じがする。それに――」

そこで一旦区切ると、にやりと笑みを浮かべた。

「”出身”のことを”郷里(クニ)”だなんて言う若い人、お兄さんしか見たことないしね。それも本の影響なんじゃない?」


一瞬、虚を突かれた気がした。



― ― ―


仕事が終わり、家に帰る。
スーツを脱ぎ散らかしてソファーに沈むのがいつもの習わしだが、今日は違う。スーツ姿のままポケットに手を突っ込んで、俺はしげしげと自分の本棚を眺めていた。


一七〇センチの俺の二周りは高い、五段の本棚。
下から二段はマンガで、上からの三段は本、それもほとんどが文庫本だ。一番上の段は敬愛する浅田次郎の作品で統一しているが、残りの二段は自分の興味のままに蒐集した本を収めているものだから無秩序極まりない。
浅田次郎とカオスで形成されたこの本棚から、気の向くままに持ち出した一冊を読むのが、件の喫茶店に通いはじめて以来の昼休みの過ごし方になっていた。


改めて、本棚の一段目から順に蔵書を眺めていく。
本棚を見ればその人となりがわかるというのはよく聞く話だが、いざこうして本棚を眺めてみても自分の事は何ひとつ見えてこない。


やっぱりなんか違うわよ。この辺の方言(ことば)をしゃべってても、中身は違うわね。人と違うこと考えてそうな感じがする。


女将の言葉がリフレインする中、俺はあの喫茶店で読了/再読した文庫本たちを数え始めた。


浅田次郎作品

地下鉄【メトロ】に乗って(恋愛小説)
きんぴか(全3巻 ピカレスクコメディ小説)
プリズンホテル(全4巻 ピカレスクコメディ小説)
天切り松 闇がたり(既刊5巻 ピカレスクロマン小説)
王妃の館(上下巻 コメディ小説)
オー・マイ・ガアッ!(コメディ小説)
ハッピー・リタイアメント(コメディ小説)
椿山課長の七日間(人情小説)
歩兵の本領(自衛隊短編集)
憑神(幕末時代劇)
赤猫異聞(幕末時代劇)
五郎治殿御始末(幕末時代劇)
あやし うらめし あな かなし(心霊短編集)
鉄道員【ぽっぽや】(短編集)
沙高楼綺譚(短編集)
霧笛荘夜話(短編集)
競馬どんぶり(競馬エッセイ)
勝負の極意(競馬エッセイ)
サイマー!(競馬エッセイ)
アイム・ファイン!(エッセイ)
勇気凛凛ルリの色(全4巻 エッセイ)


浅田次郎作品以外

コルトM1851残月 月村了衛(時代劇)
銀しゃり 山本一力(時代劇)
ベルカ、吠えないのか?  古川日出男(小説)
ハル、ハル、ハル 古川日出男(短編集)
パンク侍、斬られて候 町田康(SF時代劇)
新宿鮫 大沢在昌(ハードボイルド小説)
鏡の顔 大沢在昌(ハードボイルド短編集)
塩の街 有川浩(SF小説)
三匹のおっさん 有川浩(小説)
鴨川ホルモー 万城目学(小説)
三ツ星商事グルメ課のおいしい仕事 百波秋丸(小説)
球は転々宇宙間 赤瀬川隼(野球小説)
東一局五十二本場 阿佐田哲也(麻雀短編集)
ジョゼと虎と魚たち 田辺聖子(恋愛短編集)
ニューロマンサー ウィリアム・ギブスン(SF小説)
脱走と追跡のサンバ 筒井康隆(SF小説)
愚者【あほ】が出てくる、城寨【おしろ】が見える マンシェット(ノワール小説)
赤めだか 立川談春(落語家自伝)
板極道 棟方志功(版画家自伝)
勝負 升田幸三(将棋棋士自伝)
男たちへ 塩野七生(エッセイ)
一瞬の夏 沢木耕太郎(上下巻 ボクシングノンフィクション)
木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか 増田俊也(上下巻 柔道・プロレスノンフィクション)
肉体の鎮魂歌 増田俊也他(格闘技ノンフィクション)
江夏の21球 山際淳司(野球ノンフィクション)
スローカーブを、もう一球 山際淳司(スポーツノンフィクション)
無名最強甲子園〜興南夏春連覇の秘密〜 中村計(野球ノンフィクション)
勝ちすぎた監督〜駒大苫小牧 幻の三連覇〜 中村計(野球ノンフィクション)
放浪の天才数学者エルデシュ ポール・ホフマン(数学者ノンフィクション)
生きていくための短歌 南悟(新書)
平成時代 吉見俊哉(新書)


再読/再々読も多いとはいえ、三年間の昼休みだけで読んできたと考えればそこそこの量になったとは思う。
だが、元より数を誇る気はない。そもそもの話、今は本を読む奴とそうでない奴とに二極化した時代だ。読む奴はひたすらに濫読するし、読まない奴はとことん読まない。さらに読む奴らの中でも、読書家という人種はそれこそ途方も無い数を読んでいるものだ。それに比べれば、俺の読んできた数など微々たるものだろう。
それに、俺自身は数を誇るために読んでいるわけではない。ただただ、仕事の気分転換のために読んでいるだけだ。


「・・・とは言ってもなあ」


浅田次郎以外の文庫が詰まった二段目と三段目の棚を見ながら、思わず独りごちた。


こうして見ると、やはり混沌としたラインナップだと思う。
すべての本に対して純粋に食指が動いたわけではない。自分から読みそうにないと思ったからこそ手元に置いた、逆張りの産物もいくつかはある。しかし、興味なく読み始めた逆張りの産物たちのなかにも、何度も読み返すほどに面白いものが現れる。それがまた不思議だ。

所詮は気分転換、所詮は暇つぶし。自分の好きな本だけ読んでいればそれでいい。いや、気分転換や暇つぶしが目的なら、そもそも本など読まなくてもいい。周りと同じようにスマホでソーシャルゲームを嗜んでいればいいのだ。


それなのに、なぜ俺はこうも本を読むのか。
ときには自分の興味に逆らってまで、なぜ本を手に取るのか。


可視化されたカオスを見つめ続けても答えは出ない。俺は本棚から離れるとスーツを脱ぎはじめる。

スーツを脱いだあと、俺にしては珍しく、そいつを行儀よくハンガーに掛けた。


― ― ―


昼休み。
いつものように件の喫茶店に行き、ケツのポケットから文庫本を取り出す。テーブル席にひとりで腰掛けてから、文庫本のページをめくり始める。
それから、間もなくのことだった。

「よう、お疲れ」

声のした方に目線を向ける。会社の先輩、田口さんだ。
部署の違う田口さんとは、麻雀の場で知り合った。会社の好きもの同士――もちろん、俺もその一人だ――が月イチで囲む卓で同席して以来、お互いに顔を見合わせれば話す仲になっていた。

「ああ、田口さん。お疲れさまです」

どうぞこちらへ、と差し伸べた手を受けて、田口さんは対面に座る。そのままスマホを取り出してゲームを始めるが、あいにく俺にはわからないゲームだ。

当たり障りのない仕事の話、それから、田口さんの趣味――麻雀やパチスロ――に水を向ける。こちらから提供できる話題があればそれを話すが、仕事仕事の毎日だといつも話題があるわけでもない。
そうして話題が潰(つい)えると、お互いに本とスマホに取りかかる。それが、麻雀以外に共通項のほとんど無い、メシが来るまでの俺たちの過ごし方だった。

各々に来たメシをほとんど同時に食べ終え、再びスマホと本に戻る。
食後のコーヒーが運ばれてきた辺りで、田口さんがスマホをいじるのをやめると、口を開いた。


「本ってさ、やっぱ読んだほうがいいのかねえ」

「え」


唐突な、そして意外な発言に、思わず固まった。
本は読む奴と読まない奴に二極化するという話で言うと、田口さんはとことん読まない方だ。それがわかっていたから、俺は自分の最大の趣味である読書について、田口さんにはあえて話さないように努めてきた。

「どうしたんスか、いきなり」

俺の疑問に、田口さんは答える。

「いや、俺が読むってわけじゃないんだけどさ。子どもの教育のことを考えててね。小さい頃から本読んだらアタマ良くなるとか言うけど、実際どうなんかなって思ってさ。竹井君(俺)はよく本読んでるじゃない。やっぱ読んだほうがいいの?」

なるほど、そういう話なら合点がいく。
田口さんは俺と年が近いが、未だ独り身の俺とは違ってすでに三人の父親だ。娘さん息子さんの教育で、なにか思うところがあったのだろう。

とはいえ、俺がその疑問に答えられるかというと別問題だ。まさにこの間、そのトピックへの自問自答に失敗したばかりの俺に満足な答えが出せるとは思えない。

「いやあ、どうなんスかねえ。アタマ良く育ってもらいたいなら学校の勉強や塾の方がダイレクトに効くでしょうし、そもそもアタマ良くなっても人生うまく行くとは限らんですからねえ。



当たり障りのない言葉を返しながら、不意に。

脳裏に、閃きが走った。



なぜ、ときには自分の興味に逆らってまで、俺が本を読み続けるのか。

何の前触れもなく、その答えの一端が、見えた気がした。



「ど、どした?竹井君」

田口さんの呼びかけに我に返った俺は、間を置いて話しはじめた。
閃きの中身をこわさないよう、慎重に言葉を選びながら。


「・・・本業が人生を支え、無駄が人生を彩るって話だと思うんです」

「え?それどういう事」

「働かなきゃメシは食えないし、社会的にも認められないし、奥さんもお子さんも養えない。だから本業、要するに仕事は人生の基礎なんです。だけど、それだけじゃつまんねえから遊ぶんです。本業には何のメリットにもならない無駄なことだけど、人生を面白くするためには絶対必要なこと。要するに趣味です、趣味」

一区切りして、ホットブラックを啜る。
田口さんも、それに習ってグラス(猫舌の田口さんは年中アイスコーヒーと決めている)に口をつけた。

「・・・で、その趣味のなかでも、読書って結構な無駄だと思うんですよ。コスパが悪いというか、時間と想像力を使わされる趣味なんです。楽しむだけならパチスロやソシャゲのほうが手っ取り早いですよ、絶対」

「俺も断然そっち派だからなあ。本は読もうって気にならんのよ、めんどくさくなっちゃって」

「ですよねえ」

ははは、と口を揃えて笑う。


「でも、そのめんどくささが良いんです。本を読むのってイヤでも想像力を使わされるんで、その分深く情報が刻まれるんですよ。しかも、自分の人生だけじゃ知ることのない情報も、本でなら知ることができます。読んだ数だけ知ることができます。知らないことを知るということは、どんな人間にとっても快楽なんですよ。勉強ができる/できないとかアタマの良し悪しに関係なく、どんな人間にとっても」

「はー、モノを知るのは快楽か。好奇心を満たせるってことかね」

「そうです。読むことで好奇心を満たせますし、読むことで好奇心のキャパはさらに広がります。その楽しさに際限はありません」

田口さんの相槌に同調し、まとめに入る。


「知らないことを知るという快楽を得られる。しかも自分の中に深く刻み込むことができる。読めば読むだけ、その快楽のレベルは際限なく上がっていく。一銭にもならないくせに時間と想像力を使わされますけど、その見返りはお釣りが来て余りあるほどです。たぶん、それが趣味としての読書なんだと思います」


言いたいことを言い切り、俺はホットブラックの残りにミルクと砂糖を入れてかき混ぜた。田口さんは腕を組み、何やら考えこんでいる。

「すんません、お子さんの教育の話だってのに関係ないことをベラベラ喋っちまって」

「いや、いいよ。なるほどねえ、知ることは快楽で本ならそれを深く味わえるってか」

「つっても、読む習慣がないうちはやっぱ苦痛ですけどね。必要に迫られないうちは無理して読んでも身にならないでしょうし、お子さんにも無理強いしないほうがいいと思います。強いて言うなら、絵本の読み聞かせやら自分が読んだ本の感想を言ったりやらで、お子さんに興味を持たせるところからじゃないでしょうか」

「結局は親の背中を見て育つってかぁ?だったらムリだなあ、親父が本に興味ねえんだからさ。ははははは」

「ははは、実際それでいいと思いますけどね。読書以外から得られる大事なコトもいくらだってあるでしょうし」

「そうそう。結局ね、自分の体でわかってるコトだけなんだよ。誰かに教えられるモノなんてのはさ。竹井君も子どもを持ったらきっとわかるよ」

「でしょうね、きっと。そのときになったら痛感すると思います」



「ところでさ。竹井君が今読んでる本、なんていうヤツ?」

田口さんの問いに、表紙を見せながら答えた。

「”東一局五十二本場”。久しぶりに読んだけど、けっこう面白いんですよ。麻雀の短編小説集でして」

「麻雀!?」

麻雀好きの田口さんの目が輝いた。読ませてくれという先輩の言葉に応じ、文庫本を手渡す。
パラパラとページをめくりながら、田口さんが呟いた。

「すげえな、麻雀牌がちゃんと印刷されてる」

「麻雀小説はだいたいそのフォーマットで牌を描写しているんです。いいっスよね、わかりやすくて」

「だなあ」

パラパラとページをめくる指が次第にスピードを失い、ついに止まった。目が活字を追っている。
こちらの予想以上に、田口さんは興味を持たれたらしい。

「へー・・・話は古いけど面白そうじゃん」

「昭和が舞台の話ですからね。でもけっこう面白いですよ。普通に生きてたら味わえない、ドライでダークな博打打ちの世界観が味わえます」

「うん、そんな感じがするわ」

活字に目を落としたまま、田口さんは相槌を打つ。
俺もそれ以上続けることなく、無言でカフェオレを啜っていた。


ページを二回ほどめくった辺りで、田口さんが顔を上げて言った。

「これさ、貸してもらってもいい?」

「ああ、読まれます?」

「うん。ちょっと面白そうだわコレ」

「どうぞ持ってってください。僕はもう読んでるんでお構いなく」

ニカッと笑みを浮かべて礼を言うと、田口さんは文庫本をスーツの懐に収めた。

「もしよかったら、読んだ感想を聞かせてください。途中で飽きたら、読んだ分まででも構いませんので」

「おう、そうするわ。いやでもコレ面白そうだからなあ、スルスルっと最後まで読んじまうかもしんねえよ」

願わくば、そうあってほしいものだ。



本を読むことなど、所詮は数多ある趣味の一つにすぎない。これまで本に慣れ親しんでいない人に無理強いする筋合いのモノではない。


しかし、できることならば、また一人。



読書という名の悦楽を、知ってほしい。

何にも替えがたい人生の彩りに、目覚めてほしい。



そう思いながら、微温く、甘ったるいカフェオレの残りを、飲み干した。



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