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ダーティーワーカー胸を張る。

「カネは命より重い」という言葉がある。
 この言葉を言い放ったのは”カイジ”の悪役である利根川幸雄だが、カイジを読んだ事が無くてもこの言葉を聞いた事があるという人は多いのではないか。残酷ながらも簡潔に真理を衝いた、漫画史上に残る名台詞だと言っていい。

 だがそれはそれとして、俺個人の考えは利根川のそれとは少し違う。
 カネと命、どちらが重いという話ではない。カネは命の別名だ。己の命が有形化/化体けたいしたモノがカネである、そういう風に常々思っている。
 社会に出て働き始めてからそう考えるようになったわけではない。社会人になる遥か手前、中高生の頃にはそういう考えを抱いていた。
 

 カネは命の化体物。
 その思想を抱く切っ掛けになったのは、大昔に聞かされた親父の一言。
 


 今から二十年も前の事になる。俺が中学生だった頃、一風変わった授業が行われた。科目名は道徳だったか総合学習だったか今となっては覚えていないが、その具体的な内容は覚えている。
 ”働くとはどういう事か”について皆で考えるというもの。クラスの生徒の父兄を二、三人ほど教室に招きその人の仕事観について語ってもらうという、大人の目線で見れば面白そうな――多感な中学生からすれば退屈な、あるいは自分の親がさらけ出されるという恥ずかしい事この上ない――内容だった。
 かく言う俺は思春期特有の親や大人への反抗心を持たない性質タチだったから、授業内容を聞かされたところでどうという事も無かった。自分の親だけは絶対に呼ばれたくないと喚くクラスメイト達をよそ目に、学校の先生以外の社会人がどういう話をするのか少なからず興味をそそられていた。


 それから数日後の事、家族で食卓を囲んでいた時の事。
「今度、〇〇(俺の名前)の学校に行く事になってな」
 出し抜けに親父が俺に向かって口を開いた。
「え?何しに来るの」
 近々授業参観なんてあったっけ、なんて事を考えながら訊き返した俺に親父は応える。
「ああ、何か〇〇んとこの先生から電話が掛かってきてなあ。仕事について思うところを生徒に話してやってくれって話で、俺で良いならって引き受ける事にしたんだ」
 流石に驚いた。別に自分の親が衆目に晒されたところで恥ずかしくも何ともないが、まさか親父があの授業の講師に選ばれるとは予想だにしていなかった。
「え、マジで。仕事大丈夫なの」
「うん、その日は都合が付きそうでな。今どきの中学生がオッサンの話聞いて面白いのかわからんけど、先生に頭低くして頼まれちゃあ無碍に断るわけにもいかんしなあ」
 軽い動揺を見せる息子をよそに、親父は飄々とした調子で答えながらお袋に飯のお代わりを頼む。
「それでお父さん、子ども達の前で何喋るつもりなの?」
 飯をよそいながらのお袋の問いに親父は腕を組んだ。
「いやそれなんだけどな、まだ全然考えてないんだ。少しは教育に良さそうな事を言おうとは思ってるけど。あ、でも格好だけは決めてるな」
「格好?何着て行くかって事?」
 お袋よりも早く疑問を口にした俺に親父は頷く。
「おう、ちゃんとした大人の服装で行こうと思っててな。先生どころか大臣に会っても恥ずかしくない真っ当な勝負服だ。そこは気合入れていくぞ」
 職種は詳しく言えないが親父は自営業を営んでいる。作業服を着る事の多い仕事だが、背広姿の親父もこれまで何度か目にしていた。大方一張羅のスーツでも決めていくつもりなのだろう。
 それにしても、話の中身より先に服装を考えているとは思いもよらなかった。授業の講師を引き受けたのは立派だが、その感性は中学生の俺からしても子どもっぽい。
 己が息子から半ば呆れられている事にも気づかず、親父はへへへと悪戯っぽい笑みを浮かべていた。


 授業当日。俺の親父を含めて三人の父兄が講師として教壇に立つ。今は二人目の話が終わろうかという段で、それが終われば三人目、つまり大トリを務める俺の親父の講話が始まる運びだ。
 一人目と二人目が何を話したのか、今となってはほとんど覚えていない。恐らく各々の仕事内容についての無難な――はっきり言うと特に面白みの無い――説明だったと思うが、自分の親父の格好が気になって講話を聞くどころでは無かった。

 親父は臙脂えんじ色の作業服姿でやって来た。
 生地は厚手。色彩は深い黒みを基調にしたレッドカラー。普段着ている生地も色も薄いモスグリーンの作業服とはまるで正反対だ。親父がこんな服を持っていたとは息子の俺ですら知らなかった。
 それにしても、何でまた作業服なんだ。「大臣と会っても恥ずかしくない格好」という口ぶりからして、背広とネクタイでビシッと決めてくるとしか思えなかった。それなのに何故敢えて作業服を選んできたんだ。
 俺の困惑など何処吹く風といった風情で、親父は悠然とパイプ椅子に腰掛けている。暗赤色の厚手の作業着に身を包んでいる事も相まってか、その佇まいには巌のような貫禄が漂っていた。

 二人目の講話が終わり、親父の番が回ってきた。壇上に立った親父は軽く会釈をし、生徒たちを見回す。

「えーどうも、〇〇(俺の名前)の父です。いつも息子が大変お世話になっております」
 真顔で挨拶を繰り出し、再度頭を下げる。その様がシュールに見えたのか生徒と父兄が笑い声を上げた。俺は恥ずかしいと思う余裕もなく、作業服姿の親父が何を言い出すのかひたすら気を揉んでいた。

「私の仕事の内容については、時間の都合もあるでしょうから今回は割愛させていただきます。幸い私の前のお二方が仕事の様子や一日の過ごし方などについてお話ししてくれましたので、私は少し違う角度からお話しさせていただきたいと思います。今回のテーマの通り、”働くとはどういう事か”について、私が常々思うところを少しだけお聞きください」
 そこまで語り終えると親父は一旦話を切り、教壇に軽く両手を添えて聴衆に目線を据える。その姿勢のまま再び口を開いた。


「働くとはどういう事か。それは詰まるところ、自分の命を削ってお金を頂戴するという事です」

 気負った様子はどこにも見受けられない無造作な物言い。しかし親父の言い放った一言は、まるで筋金を通すかのように教室中の空気を張り詰めさせた。

「体力、気力、そして時間。どれも私たちが生きていくためには欠かせないものですが、仕事はその大部分を持っていきます。肉体労働で体は疲れ、デスクワークや営業で精神はすり減り、一日八時間以上とも言われる長時間の拘束で一日の、ひいては人生の三分の一以上は消えていきます。そうして自分自身を費やした結果得られるのが給料や報酬、つまりお金です。言うまでもなく、お金が無いと生きていけません。ご飯も食べれない、服も買えない、家にも住めない、家族を養っていく事もできない。この世で一番大事な自分自身を消費する事でしか、人間は社会で生きていく事は出来ないんです」

 恬淡とした口調。何ら気負いのない表情。飽くまでトーンを変える事なく親父は続ける。

「これは世の中の九十九パーセント以上の人に当てはまる話です。今日この話を聞いてくれている皆さんは、いずれ社会に出て働きはじめます。高校や専門学校を出てから、大学を出てから、大学院を出てから、あるいは中学を卒業したらすぐにという人もいるでしょう。今話している事は学校の成績の良し悪しだとかどういう仕事に就くのかとか、そういう事とは無関係の話です。遅かれ早かれ、誰でもいずれは自分自身の命を削ってお金を頂戴する事になる。誰にとっても辛い事ですが、誰もがそれに直面しないといけない。それがこの社会で生きていくという事です」

 教室は完全に静まり返っていた。身動みじろぎした生徒の衣擦れの音が耳に入る。

「――だからこそ、働く事でお金以外の何が得られるのか、自分を削って働いた事で頂戴できた、自分そのものとも言えるお金で何をするのかが大事になってきます。先生方には申し訳無い話ですが、学校の授業ではその答えを教えてくれません。皆さんのお父さんお母さんも教えてくれないかもしれないし、教えてもらったとしてもよくわからないかもしれない。こういう人生そのものに直結する物事への答えは、自分自身で探っていくしかないんです」

 数瞬の間を置いて、親父が口を開く。その表情は心なしか柔和なものに変化していた。

「話は変わりますが、私は自分の家族が大好きです。奥さんも、子どもたちも、みんな。家族こそが私の生き甲斐です。もちろんそれぞれが独立した個人ですが、私にとっては我が身の分身と言ってもいい存在です。そういうかけがえの無い存在を守るために私は働いています。自分の命をお金に換えて、そのお金で家族を養っています。どのような職種であろうと働く事は大変です。辛いものです。ですが、そうして得られたお金を自分の生き甲斐に、人生を賭しても悔いの無いものに費やせる事に、私はこの上ない満足感を抱いています」

 唐突に始まった親父の惚気。普段飄々としている親父から初めて聞かされた家族への想い。
 その言葉を聞きながら、俺は圧倒されていた。
 恥ずかしく思うわけではない。誇らしく思うわけでもない。自分の息子を前にして何の衒いも無く家族への愛を謳う親父の、そのおおきさにただただ息を呑んでいた。

「働くという事は”はたを楽にする”、つまり自分の周りを、ひいては社会全体を良くする行為だと昔から言われています。確かにその通りなのですが、世のため人のためという一点だけでは頑張れないのも事実です。おいしいものを食べるでも良し、いい車に乗るでも良し。自分の命を削って得たお金だからこそ自分が一番満足できる使い方をする。それが善く働くという事で、善く生きるという事にもつながると私は思う次第です。
以上で終わりにしたいと思います。皆さん、こんなオヤジの話につき合って頂きありがとうございました」

 始まりと同じように一礼をし終えると、臙脂色一色に身を包んだ親父はすたすたと歩いて席に戻る。しばらくの間誰もが呆けたように固まっていた。 
 やがて、我に帰ったかのように先生が、次に父兄が、そして生徒の何人かがまばらな拍手を送る。自分の親に送るものという事を忘れ、俺もつられて拍手した。

 生徒の中で真っ先に拍手を送ったのは、黒に戻しきれていない茶髪の染め跡が目立つヤンキーだった。


「よう、お疲れ」
「うん、迎えありがとう」
 授業と部活を終えた俺を親父が車で迎えに来てくれた。俺は普段自転車で通学しているが、今日に限っては親父の方から「どうせ終日空けているから」と送り迎えを申し出てくれたのでそのまま好意に甘える事にした。
 俺がシートベルトを締めるを確認してから、親父は車のキーを回す。その出で立ちは相変わらず臙脂色の作業服のままだった。

「今日の俺の話、どうだった」
 助手席の俺に親父が問い掛ける。うん、と生返事をした後、少し間を空けて応じた。
「良かったと思う。だけど、早すぎたような気もする」
「早すぎた?」
 怪訝そうな親父の声。疑問に答えるべく行間を埋める。
「何というか、中学生には早すぎる話なんじゃないかって思った。中学生の俺が言うのもおかしいけど。実際生徒どころか、先生や他の父兄さんとかの大人もとっさに反応できて無かったじゃん。父さんの話が終わった後」
「ああーまあそれはなあ」
 曖昧な言葉を返す親父。言外に肯定している様子だった。
 でもな、と親父が言葉を継ぐ。
「それを言ったらそもそも話のテーマが難しいんだ。”働くってどういう事ですか”って聞かれてちゃんと答えるだなんて大人でもそうそう出来る事じゃない。さっきの話でも言ったけど、ああいう人生に直結する話は日頃から考えておかないと喋れるもんじゃないんだよ。だからこそ俺は俺なりに自分の考えを整理して、中学生でもわかるように話したつもりだ。そういう周りの話じゃなくて、お前自身はどう思ったんだ」
 冒頭の質問に戻った。言葉に詰まりながらも、思ったところを正直に伝える。
「・・・最初の言葉。あれが印象に残った。それこそ中学生には早すぎると思った言葉だけど」
「最初の?――ああ、あれか」
「うん。”自分の命を削ってお金を貰う”って話。ちょっとキツい言い方だったけど、その分印象には残った」
 俺の言葉を聞いた親父はさもありなんといった調子で頷き、そのまま話し始めた。
「身も蓋も無い言い方をしてしまったけど本当の事だから仕方が無い。中学生だと分別もつけられるようになる頃合いだし、実際あの中には中学を出たらすぐに働く子だっているだろう。それならヘンに子ども扱いして夢だけ見せるよりは、最初に現実を伝えた方が良いと思ったんだ」

「・・・俺、まだ働いてないしすぐ働く気もないから、働く事がどう大変かなんてわかんないけど」
 そこまで言って、一旦口を噤む。
 何拍か置いて、再び口を開いた。



「父さんが、普段どれだけ家族の事を思って大変な仕事をしているのかはわかったと思う。多分、だけど」

 家族のために身を粉にして働いている事への感謝を衒い無く伝える、それが出来るほどには中学生の心は成熟していない。それでも尽くせる限りの言葉は尽くさなければならない、そういう思いでやっと捻り出した一言だった。
 たどたどしい俺の言葉を受けて、親父は満更でもないといった風情の笑みを浮かべる。
「まあ、父親ってのは多かれ少なかれそういうプライドを持ってるもんなんだよ。上手く言葉に出来なかったとしてもな」

しばしの沈黙。エンジン音が車内を満たす。
やがて、俺の方から声を掛けた。

「父さん、最後に一つ聞きたいんだけど」
「ん、何だ」
「どうして今日、作業服着てきたの」
「おいおい、これはただの作業服じゃないんだぞ。一年に二、三回あるか無いかの、よっぽど気合を入れなきゃいけない現場や取引のときにだけ使う俺の勝負服なんだ」
「いや勝負服なのはわかったけどそれでもやっぱり作業服じゃん。大臣に会っても恥ずかしくない格好とか言ってたから、てっきりスーツとか着てくると思ってたのに」
「ああそういう事か。だったら簡単な話だ、俺のこの格好をよく見てみろ」
 言われるがまま、親父の格好を今一度眺めてみる。
 
 臙脂色の作業服上下。ダークレッドの厚手の生地で造られた、色も触りもごつい服。
 スマートな背広とは正反対の世界観で身を固めた親父の姿は、普段よりも一回り大きく見えた。


「どうだ、スーツよりこっちの方が貫禄出せてるだろう。自分の腕一つで稼いでいる男の貫禄だ。この貫禄が出せてるうちは、俺は総理大臣にだって面会できる」


 自分の命と引き換えにカネを手にし、そのカネで家族を養う。
 その行為に無上の誇りと喜びを見出す男は、またしてもへへへと悪戯っぽく笑った。


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