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怒鳴られた話

その日、ぼくはこじんまりとした店の中で、ご婦人を相手に打ち合わせをしていた。
ほぼ問題なく話が終わった頃、旦那さんが帰ってきたので、挨拶をした。
挨拶だけで終わるかと思いきや、その人はテーブルにつくなり「そいで、本当に売れるのか」と言った。
ネットでものを売るのは、実店舗と同じで、売れるかどうかは開店後の運営次第である。
その事を伝えると、「ほれみろ、ボロを出すのを待っとったんじゃ」と言った後、おもむろに姿勢を変え、
「お前んとこがそこ保証するって言ったから契約したのにどうなっとんじゃ、ええ!」
と大声でまくしたてた。
「営業に確認します」
と、今であれば冷静に対応できただろう。
しかし、まだ20代そこそこだったぼくには、それができなかった。
ここまでの打ち合わせでは、何も問題はなかった。嘘もついていない。それなのに、まさか怒鳴られるとは思っていなかったから、面食らった。鳩が豆鉄砲を食ったよう、というあれだ。
「この間来たやつからそんな話も聞いてないのか、どうなっとんじゃお前んとこは!」
そういう話は聞いていない。
旦那さんはテーブルを叩きながら、まさしく「雷」という表現がふさわしい声で怒鳴り続けている。
死後、閻魔大王に相対したらこんな風かも知れない。
とは、思えなかった。
そんな余裕はなく、なぜ怒られているのかもよくわからず、とにかく巨大なドラゴンが吼えるような声が恐ろしくてたまらず、小さく萎縮してじっと黙っていた。
「お前個人の連絡先を書け。何かあったら電話するから出ろ」
紙を渡されたので、ボールペンで携帯の番号を書いた。この時はじめて、自分の手が震えていることに気が付いた。
そのあと、どういう経緯かは忘れたが、奥さんの車で駅まで送ってもらったことだけは覚えている。
帰社後に担当の営業マンに対応してもらうと、電話越しにあの怒声が聞こえた。
しかし、ぼくからすると不思議で仕方がないのだが、大きな揉め事にはならず、通常通り制作を行うことになった。営業マンの水際立った手腕のおかげ、といったところか。
以降、失礼のないよう、細心の注意を払って進めたが、それでも何度か電話の向こうで「雷」が炸裂した。電話だと音が割れて、何を言っているのかわからない。
はじめはやはり、恐ろしくて仕方がなかった。
しかし驚いたことに、次第に慣れてきた。
慣れると、雷鳴が声として聞き取れるようになった。
慣れるものなのか、と思った。
それまでの人生で、あそこまで強烈な雷を落とす人に遭遇したことはなく、以降も、出会ったことがない。
もしかすると、世の中には日常的なコミュニケーションの中で、あのような音圧を浴びている人もいるのかもしれない。というか、あの人の周りには沢山いるはずだ。
あの日から、自分にそういう経験が希薄なのは、ただの幸運である、と思うようになった。
世界は本当に広い。

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