理解されないということは当然であり、される必要もないのかもしれない

こんにちは! 村上翔平です!!

今回は理解する・されるについてのお話をしていきたいと思います。

実は最近様々な人と話すことが多くなり、いろいろな気づきをいただいき、本当に感謝している。

元々人の意見や話を聞くのも、話すのも楽しくて大好きなのですが、一人で自分と話すのが実は一番楽しい。


というのも自分のことを一番理解しているのは紛れもなく自分で、態度にも言語にもならないことを最も理解している。

だから本当に話したい話は基本他者とはできないと考えている。

それには根拠もある、というのもある程度の専門知識と考えがないとそもそも同ステージに立って話すこともできないが、それほど考えるほど同質疑問に熱意がある人は非常に希少である。

だから、自分とよく対話し、自分を高め、他者から気づきや新しい知識を得る。

それこそ最も良いサイクルで考えがまとまる。

そこから初めて他者言語にして伝えるかというフェーズに入る。

だから、いきなり裸で人の家に上がり込んで、『どこに座っても良いのか?』という疑問には申し訳ないが、『アポを取り、服を着てから出直してくれ』としか言えないのである。

最近面白いと思うことは話さないし、話せないのが自分でも心苦しいが、一意見を考えるためにあらゆる様々な知識と経験をあわせていて、それを私が説明する必要がない場合には説明しない。

だから、最初は自分と話す。

その徹底こそがクリエイティブな個性を生む。


これはある種極論だがそのくらいの方が合理的で面倒が少ない。

ではまた、、。

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