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死ぬことと本を読むこと②

「遮光」は見事な作品だった。彼女との死を経験した虚言癖のある男の話だが、最後のシーンの美しさは言葉にできない。激しくネタバレするのだが、要は死んだ彼女の小指を口に含んでフィニッシュ。彼女自身を肉体に受け入れる瞬間なのである。
「気持ち悪い」と一蹴する向きもあろうが、私にとっては至上の美しさを持った描写だった。
死と生の交錯を見たような気がした。

そして、小説とはその肝心な描写に入るまで、とにかく焦らし続ける文学なのだと知った。
詩はストレートに思いを伝えるものだが、小説の魅力は曲がりくねりながら読者を焦らすそのサディスティックな一面にあるのだ。
この点でいうと、村上春樹がインタビュー集である「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」のなかで、小説はズバっとわかりやすく書けない人がだらだら書くものだから、小説家はみな馬鹿だという旨のことを言っている。つまるところその「愚かさ」というものがまさに読者を「なんなんだろう」という焦らしの世界にいざなうと理解してもいいかもしれない。

ここでついに私は、分厚い本ほどその「焦らし」が大きく、美しい言葉に出会った時の喜びも一入になることに気づいた。厚い本も読む価値があると知ったのである。

高校では小説はもちろん、詩も読み続ける日々が続く。本という沈黙した世界の中に自分が入ってさえすれば、いくらでもその世界に溺れ、浸ることが出来る。これ以上の快楽はなかった。

死の描写に対する思いは、この時期になると自覚的なものになっていて、更に強いものとして存在するようになっていた。
そこで出会ったのが、寺山修司の「懐かしのわが家」だ。以下に抜粋する。

「昭和十年十二月十日に
ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかゝって
完全な死体となるのである」

私はこれを初めて読んだときに電撃が走った。赤ちゃんが不完全な死体であり、そしてそれが人生というプロセスの中で完全な死体として「完成」される、と。
私もまた、不完全な死体なのだと気づかされ、そしてこの詩を読んでいる瞬間もまた、私は死体へと近づき続けているということに気づかされた。

こうした様々な出会いがあって、大学ではとにかく図書館に籠り続けていた。人間との関わりを遮断して、分厚い本を読む大学での日々。そうして自分が本の世界に入り込んでいき、現実の時間を忘れていけることが、とにかく楽しかった。

はて、今まで読んだ本は何冊ほどあるのだろう。
ちょっとだけ目を通したものや雑誌、漫画なども全部含めれば、大体30年くらいでざっと3000冊は超えるのだろうか。多い方とは到底言えないが、思い返せば結構あるものだと感じさせられる。

私が老いて「完全な死体」になるときには、素人考えながら、平均寿命も90~100歳くらいになっているだろう。単純計算で、約10000冊の本と出会うということになる。この数を多いと取るか少ないと取るかは人次第だが、私は若干の焦りがある。

つまり、多くても10000冊くらいにしか出会えないからだ。
それは10000の世界にしか出会えないことを意味している。

そのうち、美しい言葉はどのくらいあるのだろうか。
心を動かす言葉はどのくらいあるのだろうか。
一冊の中に何個もあるわけではない。
あっても、私にとっては50冊に1つ程度だ。
となると、あと200の美しい言葉しか私にはないことになる。
この少なさをみると、焦る。

単に本を読む量を増やせばいいのだが、しかしそうもいかないのが現代社会の難しいところ、労働を時間の奴隷のように行う昨今、現実社会はどうにも息苦しい。
時間不足にかまけて、本を十分に読めずに布団に入る日々が続いてしまう。

だがそんな世界に生きているからこそ、本の世界にあった、今までには見えなかった美しさが見えてくるのかもしれない。
死体として完成する前に、一刻も早く本を手に取らねば―そう思って布団から起き上がり、机の横に詰まれた本たちへと駆け寄る。

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