見出し画像

AIが思考力を奪うというのなら、思考力がない我々は一体何をしていたのか

よく、AIが教育現場に導入されることで「子どもたちの思考力が低下する」といった懸念の声がある。
一見すれば確かにその通りっぽい主張であり、どのように規制をするのかについて世の中では議論が進んでいる。

では、逆に考えてみよう。教育現場にAIなどがなかった私たちの当時の思考力は、現代を生きる子供たちより高いのだろうか。

これはあくまで個人的な実感だが、家ではゲームに明け暮れ、先生から言われたことをただ単に遂行する学習マシーンとして勉強を強いられてきた私が、思考を巡らせる力が高かったとは思えない。失礼な話ではあるが、上司でも思考力がほとんどなく、意味不明なことを言い続けている人間はごまんといる。
そして仮に我々に思考力があるとしても、その結果がこの現代社会の知性の劣化だとするならば、そんな思考力を維持するためにAIに規制をかけるというのは馬鹿げている。

もっとAIによって生まれる恩恵を私たちは素直に享受すべきだ。
AIがあるから思考力を奪われるような子供はAIがなくても思考力はない。むしろ「どうやってAIを使おうかな」とたくらむことは、思考力を鍛えるきっかけになる面もあるように思う。
思考力の育成はAIの有無が左右するのではなく、明瞭な答えのない問いを投げかけ、それに真摯に向き合うことによってなされる。具体的には「人間はどう生きるべきか?」とか、「幸せとはなにか?」とか、そういう類の問いである。

むしろそういった問いを投げかけることがなかなかできない現代教育にこそ、思考力を低迷させる問題はある。答えのない問いができない教育では、AIがあろうがなかろうが思考力は伸びない。もちろんテストの中でそういう問いかけをせよと言っているわけでもなく、普段の授業でやったっていいはずである。

そのときに子供たちがAIをガンガン使って、その結果自分なりの思考回路と回答を得たのなら、AIがなかったころの私たちよりよほど賢くなっているはずである。それゆえに思考力を奪うのはAIではなく、幼かったころの私たちの不勉強と怠惰であり、思考するきっかけを与えられなかった現在の我々大人たちの責任である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?