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知識という麻薬

以前、半ば趣味がてら北朝鮮のことを調べたことがあった。

かつては「地上の楽園」などとうそぶかれた場所であったが、実態は言うまでもなく極めて悲惨である。
軍事拡張を進めているため世界各国(特に日本)にはよく面倒ごとを持ち込み、なにより国民生活の礎である経済はボロボロである。2500万人を超える人口がありながら、名目GDPは宮崎県や山梨県並みだという。
知れば知るほど、率直にひどい国である。心の底から北朝鮮で生まれなくてよかったと思ったのだが、ふと一つ考えたことがあった。

それは、もし私が北朝鮮に生まれ、海外のことを一切知らなかったら何を考えたのだろう、ということである。

知らなければ、いま目の前にある環境が「まだマシ」であって、「生活をするなんて簡単じゃない。こんなもんだ」と思うのかもしれない。
「こんな生活やっていられない」と思うのは、自分以外の世界に「よりよい世界」があることを認識できているからなのである。
私が「北朝鮮に生まれなくてよかった」と思ったのも、ほかでもなくより良い世界である日本を知っているからにすぎない。


「知ること」は、麻薬のようなものだと思うことがある。
知ること自体の快感が強烈に私たちを刺激する。その一方で、国のすばらしさやおいしい食べ物、素晴らしい経験、やりがいのある仕事など、一度知ってしまったらもう元には戻れない世界に私たちは生きている(それが発展というものの正体だと思うのだが)。
身勝手な価値観をベースに比較をして、そして劣ったものに「かわいそうだ」と憐みの目を向ける。

北朝鮮に生活せざるを得ない立場であったら、日本という素敵な国のことなど知らないほうが、もしかしたら幸せだったのだろうか。
「知らぬが仏」とはよくいうが、何も知らなかったときのほうが単に生きていくだけなら、よほど幸せだったのかもしれない。

以前お話を伺ったある大学の先生が「知ることで哀しみは増えていく」という話をしていた。そして「学ぶ人間はその哀しみに耐えうる自己を作れ」ともおっしゃっていた。
自己がいたく軟弱であっても、それでも麻薬のように「知りたい」と求めてしまうのは、知恵の実を口にした神話以来の人間の宿痾なのであろうか。

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