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体調を崩していろいろ考えた

先日娘の風邪が妻、そして私へと伝染し、一家で総倒れになるという子育て世代あるあるのイベントが起きてしまい、私自身、久々に体調を崩したことがあった。
娘がおなかの風邪をどこかからもらってきたようで、私も悪心と下痢がひどかった。まあ下痢は人生でも多いので人並みの耐性はあるのだが、悪心は経験があまりないせいかいまだに慣れない。心底嫌なものである。

娘や妻も同じ思いをしたんだなと思いつつ、ふと思いが至った言葉があった。
それは、大学のころの講義で生命倫理かなんかを扱う授業での一言である。

確か、不治の病であることがわかった人の親の立場であったら、その病であることを親として本人に告知をするのかどうか、みたいな話だ。仮に告知をすれば本人は治る見込みもなく絶望に打ちひしがれるだろうし、告知をしなければ本人は治ると思いながらリハビリ(に見せかけた何か)を頑張るだろうが、どちらが「正しい」のか?という答えのない講義であった。個人的に非常に好きな講義だったが、その際に「仮にいまみんながその病気になったとして、それが治らないと思ったときと、治ると思ったときと、心境はどう違うんだろうか」みたいな話をされた記憶があったのだ。

重病であると、病気そのものが原因となるケースはもちろん、薬の強い副作用で日常生活が苦しいケースもある。先日体調を崩してみて「確かに永遠に体のだるい感じや絶えず悪心が襲い来る状態が続く」と思うとそりゃ生きる気力もなくなるなと痛感したのである。
そしてその生きる気力の失った状態で生きることを半ば強いられるというのは「生き地獄」というにふさわしい。生の尊さやありがたみというものより、死が頭をよぎるのも感覚的には首肯できる。

私たちが頑張って生きようとしたり、または人生に肯定的な見方を示すのは、生きている状態が快に満ち満ちているからであり、逆に言えば病気やストレスや何らかのトラブルによってそれほど苦しみを帯びていないからでもある。
難病に苦しむ人のSNSも最近は多く、その発信を見てだれもが同情することはできるけれども、その苦しみの本当の苦しさを感覚的に共有できる人はほとんどいない。体調を崩したときに「これのもっとすごいやつが毎日、死ぬまでやってくるのか…」などと敷衍して、その境地を慮るほかないのである。

健康は言うまでもなくきわめて重要である。年を重ねれば否応なしに失うのが健康であるけれども、不思議と若いころは元気になると健康のありがたさなどけろりと忘れて無理をし続けるのが若者の最大の愚かさでもある。

若いころの風邪やちょっとした病気をして治るまでの過程というのは、健康の重要性と「そのうち治る」という改善への希望を自然と我々が抱き実際に享受しているということを教えてくれており、そして病気に苦しむ人への「理解」のヒントを私たちに提供してくれているのだろう。

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