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大人になると意外と子供の心がわかるものである(と思う)

子供の頃、親と言い争いになって思うようにことが運ばないときに「なぜ俺のことをわかってくれないんだ」と憤り続けていたものである。
「『親の心、子知らず』なんてことわざがあるけれど、『子の心、親知らず』じゃないか」なんてことを真剣に思っていた。

しかし、いざ大人になってみると、意外と大人は子供の心というものをわかっていたのだなと感じるものだ。
電車で泣いていたりする他人の子でも、なんとなくではあるが「多分抱っこして欲しくて泣いてるんだなあ」とかわかるのである。もちろん違う可能性もあるのだが、顔を見るにそうとしかみえない。
まあそういう時、お母さんは色々事情があって抱っこできなかったりするので、さらに赤ちゃんは泣いてしまったりしてお母さんはばつが悪そうな顔をして電車に座っているわけだ。
私は何ができるわけでもないので、「まあそうだよなあ、赤ちゃんが泣くのも仕方ないよなあ」と思ってぼけっとしていたりするのである。

このように、年を重ねてみたときに幼い・若い人の気持ちが実はわかっているという現象は、結構あるものなのだろうと思う。
会社であれば若い人が会社や組織に対してぶーぶー言っているときに上司が(わかってはいるが)「そうだよなあ」などとしみじみとした顔で同調をしているときなんかはまさにそうなのだろう。

こんなとき、心情を推しはかりながらちょっといい言葉を残す人もいれば、じっと押し黙る人もいる。
面倒見が良い人であれば「あれはなあ…」と説明をしてくれたりするが、だれもがそうだとは限らない。時に年配者は、ちょっとした謎めいた指摘だけを残して去ってしまうこともある。

逆に、本当の意味でそういう心情がわかっていないまま年を取った人間は、我々からしてもおよそ一顧だに値しない人間である。何もわかっていないことを周りに悟られて人望を失いながら、しかし当の本人は何も気づかずに時間だけが過ぎていくことになる。

話を戻すと、年配者が放つちょっとした言葉に匂う違和感みたいなものに触れて、「わけわかんねー」と唾棄するのか、はたまた「?」を抱えながら人生を歩んでみるのとでは結構な違いがあるような気がする。

年上の人間が何を言っていても細かいことは気にせず、若さというエネルギーをもってエイヤーとことを為してしまうというのも大いにアリではあるのだが、どこかで「年配のひとはわかっていてあえて口にしていないこともあるんだろうな」と思ってみることで、ささやかな応対に言葉にならぬ深みが増すのだろうと思う。

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