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仲間と、ともだちと。

それなりの学校生活を過ごしていた人であれば、幼稚園、小学校、中学校と時を重ねるなかでたくさんの友達がいたはずだ。

小さなころ、友達を作るのは簡単だった。なぜ・いつ友達になったのかわからないけれど、いつの間にか友達は増えていった。そして友達は、次第に増えていくものだと当時当たり前のように考えていた。

しかし現実は、年を重ねても友達は勝手に増えていくものではない。
むしろ、かつて友達だと思っていた人たちに会うことがなくなっていき、友達は減っていく。中学生になると幼稚園の友達にはほとんど会わなくなり、高校になると小学生の時の友達にも会わなくなる。
大人になったいま、私たちには何人の友達が残っているだろうか。私は10~15人くらいだという実感だ。

小さな頃、友達だと思っていた人たちのうち、どれだけがまだ友達でいてくれているだろうか。
連絡を取ることも会うこともなく、どこかで路傍の人となってはいないか。

大人になると、友達より仲間が増える。飲み仲間、遊び仲間、仕事仲間など、特定の領域で仲間を作るのだ。
仲間が集まるのには目的がある。飲みに行くとか、遊びに行くとか、仕事をともにするとかだ。もしかしたら夢を形にする目的で集まれば、それも仲間なのだと思う。

友達には、何か集まる目的はない。だから大人になると友達と呼べる人がそうそうできない。
友達は別になにをするでもなく、そこにただいて喋ったり遊んだりするだけで良い。逆に言えば「なんか会おうぜ」で集まってから、考えてもいい。時間だけが過ぎて、何も生まれない時間があっても「なんか楽しかった」と思える関係でもある。

人生は有限だ。それだけに時間をどう使うかは人生をどう生きるかということそのものである。
目的もなくただ時間をともにするというのは一見すれば無駄な時間の使い方のように見えるが、しかし同時に無駄を享受できるという意味では極めてぜいたくでもある。

知らぬうちに連絡も取らぬようになって、刻一刻と友達が減り続けていくのが人生だ。
目的のある仲間とともに時間を費やし、そして人生が目的に満ちた物になるとき、おそらくそれは極めて有意義で、そして無駄のない、筋肉質な人生になるだろう。

かたや、隙間なく有意義な時間を費やし続ける人生には遊びがない。気づけば友達が減りゆく30代にあって、友達がもたらす時間の遊びが人生のどこかにあっても、決して損はしまい。
幼年期にどこからともなく集まり、そしてともに街の至る所を笑いながら駆けたあの日々は、かけがえのない人生の「遊び」だったのだと思う。

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