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おめでたさと思考停止

朝井リョウが「正欲」という本で

多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、があると感じています

というひと言を残している。

現在のメディアを巡る環境は多様化・多元化している。大手メディアの言っていることであれば正しいという認識もいまや薄れ、絶対的な規範のようなものはもうない。

こういう環境のなかで、言うなれば「おめでたい思想」みたいなものをよく見るようになった。
陰謀論とか都市伝説とか政治や経済に関するトンデモ理論など、どこから見ても「そんなわけないだろ」という話を鵜呑みにして信じている人がいる。
思想が多様化しているからそれでいいじゃんという考え方もあろうが、その思想に「何言ってんだ?」と思う自由があって然るべきだ。

大概、そうした「おめでたい思想」は、やけにわかりやすい場合が多い。
わかりやすさと正確さは、大概の場合はトレードオフである。片方を追求すれば片一方が失われる関係にあるということだ。
よく、相対性理論の話をする時に「退屈な時間は長いけど好きなことしている時間は短いでしょ、あんな感じ」と説明されるものだが、実際の物理的な話になってくると実際の理屈はだいぶ違うはずだ。

そもそも、本当はわかりにくいから頭のいい人がわかりやすくしてくれているにすぎない。ちゃんと勉強すれば、本当はわかりにくいということがわかるのだ。
本当に正確なのかという意味でいうとそうでもないのがわかりやすいものであって、わかりやすいものとはあくまで学びの契機を作っているのである。

でも、そうしたわかりやすさが全てであるかのように信じてしまう人がいる。心底、おめでたい思想だなと思う。

おめでたさみたいなものに身を委ねてみることは、頭を使わなくても良いので非常に楽なことだ。逆に頭の中がおめでたくなってしまうことを避けようとすることは、すなわち思考停止に抗うことである。
分かりやすくおめでたい宗教を信じるか、分かりにくく哀しい現実を直視するかのどちらを選ぶかは、社会の知的な質の高低を左右する重要な問いなのではないか。

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