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正直者が馬鹿を見る社会に

小学2年生のころ、産休に入った担任に代わって入った男の先生がよく、

「正直者が馬鹿を見るのが僕は大嫌いなんだ」

と言っていた。

その当時、小学2年生の貧弱な語彙ではそもそも「馬鹿を見る」とは何なのか全く分からず、ただその一言が頭に残り続けていた。

それから十数年が経って、いつの間にか子供と大人の境界を跨いでみると、この言葉の意味が少しずつ分かってきたように思う。
要は、この世界は、必ずしも頑張った人や、正直な人が報われるわけではない、ということだ。

努力していない人や、嘘をつく人、生まれもって恵まれたいわば「貴族」がこの社会のなかで上に立っていることもしばしばである。
この社会は言うなれば「正直者が馬鹿を見るかもしれない社会」である。
「正直者が馬鹿を見る」というリスクが常に人々の前に屹立している。


さらに問題であるのが、学校教育がさも、人々はみな平等だという幻想を振りまいていることにある。

現代の教育は「平等」という非現実的な理想に支配され、さも努力したら必ずや実るかのような錯覚を子供たちに与えている。社会では必ずしもそんなことはないのだが、それでもそのグロテスクに光を当てようとはしない。

なぜこんなことをするのか。
それはそのほうが都合がいいからだ。

どのような社会であるかを知らないまま、ただひたすらに目の前にあるタスクを、いかにしたら処理することが出来るのか―それだけに注力する人間を生産し続けることが、いまの教育の一つの使命になっている(もちろん現場で必死に教鞭を執っている先生もたくさんいる)。

誰かが決めた答えをいわば「上手く当てられる」人が重用されるということになる。そうでなければ偏差値なる数字で人の能力の尺度を測定したりはしまい。

逆に、根源的な疑問を抱くような人間はこの社会にとっては扱いが面倒な部類に入る。

一般に言われる「考える力」というものは、そのタスクそのものの存在意義だとか哲学的な問題について発揮されるものではなくて、むしろそのタスクをどのようにして上手く遂行するのかと言う部分に対して発揮されるものである。
つまり「考える」ことの深度すら、教育的要請のもとで一定に規定されているということになってしまう。

ここまで色々と考えてみると、この社会を生きる上で一番楽な態度はきっとこういったことを全く知らないか、そもそも考えないで生きていく態度だ。

「知らぬが仏」とはよく言ったもので、社会を直視して「それ」に気づいてしまったときから、人は生に対して、苦しみを抱く。

そういった環境の中で死を考え、そして自らの死を招来する人がいるという事実は驚くことではない。

生産すべくして、社会は自殺者を生産しているのではないか。

社会の本質を知らない方が一人ひとりは明らかに楽であり、教育もそれを人々に知らせない方が当然楽であり、社会にとっても都合がいいのである。


ひとつ気をつけるべきことは、努力をすれば上手く行くとは限らないが、努力をしなくばそうそう上手く行くことはない、ということだ。
いずれにせよ、努力を続けることは成功する上での(ほぼ)必須条件なのである。

資本主義は永続的な成長が要請されているから、我々一人ひとりも常に成長を続けなくては社会全体の成長はありえない。
では、「結果が出るかはともかくとりあえずやらなくてはならない」という柔らかなリスクへ向かうときに何を考えればよいか。
それはひとつだけだ。「そのタスクが自分にとって楽しみを持って受け止められるかどうか」ということだ。

もし楽しければ、そのタスクの遂行に熱中する。つまり、柔らかなリスクなど、自ら気づかぬうちに押しつぶすことが出来る。
そうでなくばタスクの遂行はもはや機械的な行為となって、柔らかなリスクが自分の眼前に屹立するのである。

「あきらめなければ、夢はかなう」訳ではない。しかし自分がやってみて面白いと感じるような方向に「夢」を現実的に持ってみることは極めて重要だ。

やっていてそんなに嫌じゃないな、ということを探すことも、また肝要だ。
何故ならそれらが、上述した柔らかなリスクなどどうでもよくしてくれるからである。

こんな社会に生きるのであれば、人は夢や好きなことといった、己のエゴイズムに支えられた醜悪で強烈な支えを持たねばならぬ。
それなしには、簡単に人は生というステージから、支えを失って落下していく。現実ではそれを死と呼んでいるわけで、社会的な人の生を支えるのも、また人のエゴイズムであるのだと思う。

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