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学ぶことで、人は前に歩みだせる

「なぜ人は勉強しなくてはいけないのか――」

小さいころであれば、誰しもがその疑問を抱いたはずである。
特に、膨大な宿題を目の前にしたときや、わからない問題にぶち当たったときにそう感じただろう。


大人になれば仕事のことも含め、勉強し続ける日々が否応なしに続くわけで「なんで勉強しなくちゃいけないんだ」などと考える暇もなく、時間は駆けるように過ぎていく。


学ぶことというのは、世界に対する様々なまなざしを知ることであると私は思う。

たとえば、物理学といったものを学ぶと、普通の人が光を見て「光ってる!」としか思わないことに対し、「あれも粒であり波なんだなあ」とか思える。そうすれば光の見え方も少しは変わってくるものだろう。
優秀な友人は「世界が数式に見える」と言っていたことがあったが、ちょうどそんな感じだと思う。

りんごが木から落ちたときにニュートンは万有引力を発見したという逸話が残されているが、それも物理学者ならではの解釈の仕方である。
信仰心の篤いひとであれば、「あれは神様が落とせと命じたのだ…」などと訳の分からないことを言うかもしれないし、子供であれば「木が手を離した」と表現するかもしれない。
哲学者であれば「そもそも、落ちるとは何か…私がいま立っているこの場所とは本当に存在しているのか…」などと考え始めるかもしれないし、一つの物事に対する解釈は様々あるのが自然なことである。

つまり、それだけ同じものを見ていても、見えている世界は異なるのだということだ。

上記の言説の説得力とは、単に人に反駁を許さぬ形で説明ができているかという点に集約されるのであり、だからこそ論理的な説明が求められるだけの話だ。宗教家や子供の言葉は極めて直感的な解釈であり、「なんでそう思ったの?説明してみて」というのは野暮だ。

となると、学ぶこととは世界の見え方の違いを埋めるツールということになる。言い方を変えれば、他者が世界を理解する枠組みを知るということであり、違う世界を見続けている人々を何とか理解するために使うツールである。「ああ、この人にはこういう世界が見えているのか」と分かれば、目の前の人を理解できるのみならず自分自身が見える世界も広がっていく。
だから学ぶことは面白い。

世界の解釈に間違いも正解もない。しかし、世の中を見れば何かと正解を追い求める姿勢が目立つ。正解を求めて努力するというのは大変殊勝なことだとは思うが、それは穴を掘りすすめて雲に触れようとするような所業であることに早く気付いた方がいい。

むしろ、己が出した答えを自信をもってちゃんと主張することができるようにしていきたいものだ。ああだこうだ言われるだろうが、その批判と議論の過程とは自分の意見を磨く瞬間でもあり、そして目の前の人の世界の解釈の仕方を知るコミュニケーションの機会である。

この世界は、批判を受けること、間違えることに厳しい。そんな厳しいまなざしが、私たちを挑戦から遠ざけているとするなら、それは由々しき事態だ。
ならば、「だれも正しいことは言っていないし、だれも間違ったことは言っていない」という前提に立って学ぶことは、主張する自分の背中を押し、主張してくる相手にも近づいていける武器になる。

学びとは、私たちが躊躇して踏み出せぬ足を少しずつ前に進めてくれるものなのだと思う。

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