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【育児】子どもが生まれて世界観が変わった件

子どもが生まれてから、世界の見え方が大分変わった。

乳を飲んでは糞便を垂れ流し、そして理由もなく泣いてばかりの赤子の面倒を見るというのはなかなか大変である。
ここまで無力な状態から産み育てられる可能性は、昔だったら限りなく低かっただろうし、それでも人口が長らく増えてきた人間の歴史のすごみみたいなものを痛感している(もちろん、かつては男性が複数の女性を抱えるということも一因だったのかもしれないが――)。
それにともなって変わったのが、周りの人への見え方である。
世の中にはたくさんの人がいる。信頼できる友達から憎たらしいやつまでいろいろいる。もっといえば罪を犯す人もいる。

子どもが生まれる前なんかは「こいつまじでどうしようもねえな」と平気で思っていた。まあ、確かにどうしようもないのは事実なのだが、命の重みみたいなものを考慮したことはほぼなかった。

ひとはだれしも、腹を痛めた母親から生まれてきている。そして極めて無力な乳幼児の時期に(愛情が不足していた家庭もあろうが)育ててくれたわけで、一人で勝手にでかくなったわけではない。私もそうである。
「どんな奴もかつて赤ちゃんだったんだよな…」と思うと「いい年して心底どうしようもない」といった怒りや憤りといった力の入った心境より、「気の毒だな」といった哀れみや同情といった、力の抜けた心境になることが増えた。


子どもは基本的に知能が未発達なのですぐに怒るものだが、年を重ねて知恵がつくと多角的に見る力がついてきたりして感情のままに怒れなくなる。
体力が減って怒るエネルギーがなくなるというのもあり、子どもが生まれるとなおさら平和な気持ちになって怒りづらくなっている自分がいる。
かたや世の中への憤を失うと、社会批判の意志みたいなものが削がれていく。それはそれで望ましいことだとは私には思えない。

奇跡的な人間の生誕を、この世界に生きる人間であれば誰もが体験している。
その奇跡に対しての感謝の念は抱きつつ、だからこそ奇跡に満ちたこの世界の不条理や許せぬ出来事への憤を持つことは続けなくてはならないと私は思う。

それは一人一人が奇跡の中に誕生しているからであって、漸進的な世界の改善のためである。それだけに、親とは子供が未来を生きる社会を平和にせんと、社会に対して冷静に怒りを抱ける存在になるべきなのだろう。

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