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私たちは演劇の中に生きている――たぶん、夢以外は。

夢を見ることを愚かだとする風潮が、何となくある気がする。大人も大人で若者に「お前たちは若いから現実が見えていない」などと言う。

若者は夢を見ているから現実を見ていないのは至極当然である。しかし現実が見えているからといって何なのだろう、とも思う。

人はなぜ夢を諦めるのだろうか。それは、そこに現実があるからである。

夢ばかりを追っていたらそこには現実的なものが喪われる。
結婚とか育児とか介護など、現実というのは次第に人生の重心が自分ではないものに置かれていく過程でもある。
夢は他でもなく、極めて内発的な性質を持つ利己的なものだから、どうしても現実的な人生との衝突が起きる。

電車にいるとき、人はスマホや本に熱中しながら各々に力を抜いて過ごす。そこに表出する表情は、一日のなかでも珍しく「自分の世界」に埋没しながら公共空間にかろうじて存在している状態だ。いわば仮面をまとわぬ純粋な顔なのである。

それだけに、子供の頃に出会えた親以外の大人が力を抜いた顔をしているのは電車くらいのものであった。

じゃあ、他の時間は、となれば、人は演劇に勤しむ。シェイクスピアの「この世は舞台、人はみな役者」という名言のとおりだ。
営業をするとき、意中の男女を前にしたとき、人に褒められようと思うとき、友達と遊ぶとき――そのすべてに、強弱はあれ演劇が始まる。

大人の社会のなんとも言えない演劇性に、幼いころから違和感があった。
親が大人同士でしゃべるときの「絶妙な」距離感は何とも言えない、異質なものであった。
まあ、考えてみればそんな演劇に冷めた子供は、一周回って演劇である。いま思い出すとほほえましいものである。

「中二病」なんてスラングがある。合唱祭の練習とかをしないほうがカッコいい、みたいなやつだ。
たぶん、「真面目に歌う」ことの方が演劇っぽくて「なんかキモい」と感じていたのだろうと思う。やりたいわけでもないのに集団の強い圧力に屈して歌っている状態は「馬鹿馬鹿しい」の一言に話が収束する。中二病の発想などそんな感じなのだろう(まあ、周りからすればただ迷惑なだけだが)。

少し話が飛んでしまったが、上述したように大人の世界も演劇である。
「集団の強い圧力に屈して」というところはそのままに、私も含めた大概の大人たちもまた労働をしている。この演劇性がどうにも美しくない。真剣に労働の中で演劇をする人間もいるが、それは稀有な例であるように思う。

一体どこに演劇性のない現実はあるのだろうか。演劇性のない現実は、夢のなかにあるのだろうか。疑問ばかりが募り、そして今日も夜は更けていく。

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