思考と賃金のてんびん

「教育がどうあるべきか」については世の中でこれまでいろいろ議論をされてきた話である。
どんな人間も教育を受けて成長してきているから、教育問題については誰でも口を出せる。「教育はこういうほうがいいよね」と自分の経験から語りやすい。

現代社会では学力が人間の良し悪しを判断する道具として極めて大きな力を有している。これはあくまで「誰かさんが決めた正解を間違えない」ということにすぎない。
こうした学力偏重の在り方は、偏差値・学歴社会という言葉に象徴されている。
勉強が出来ることは、ピアノが得意だとか、サッカーがうまいとか、歌がうまいとか、そういうことと大した差異は無いと私は思っている。
ピアノが得意な人が社会の中で必ずしも厚遇されないように、勉強が出来るからといって人生がうまくいくわけではない。思い上がりも甚だしいのである。

では、教育はしっかりとした尺度となるべく「社会に於いて求められる能力を養成していくもの」になるべきなのか。
手前味噌ながら2016年10月6日の日経朝刊コラム「春秋」の一節にはこう書いてある。

「…幅広い教養を軽んじ、すぐ目に見える成果のみを求める社会はどうしたって薄っぺらだ。おもしろいヤツの、居場所がない。」

私は学校において、社会で直結するような能力「だけ」を涵養することには否定的だ。ピアノやサッカーをやりたいひとがやるように、勉強だってやりたいひとがやればいいと思っている。

勉強に関心が無かったり嫌々やるくらいなら、さっさと仕事をして、しっかりと自分の手に職をつけるなりして自立して生きていくべきだ。
社会で求められる力をつけたければ、大学やら大学院には行かず、早く社会に出れば良い。勉強ができても社会で活躍できない人はごまんといる。

もし、教育が社会に必要な能力「だけ」を身につける場となれば、人間は「生産性を高める労働力」という機械以外の意味を喪う。
それでもいいのなら、教育を通して人は進んで機械になっていくべきだ。その方が生きるのは楽だ。

深く考えることさえ放棄すれば、機械的な労働を通じて自動的に金がもらえる。深遠な思索すら捨象すればそんなにも楽に幸せになれる。
無批判に、この社会の歯車となって、生きる選択肢がそこには存在している。

そして、機械的な人間ばかりの社会には、自然と筋書きが生まれていく。

余談だが、どこかの国の政治では結論ありきで過程が埋められていく。与党内部で決めたゴールに向かって専門家会議やら有識者会議やらなにやらで適当に箔をつけ、描き上げた台本通りに話は進み、だれも感動しないという奇跡のフィナーレを迎える。
機械仕掛けの舞台である。

ただ筋書き通りの社会はどうしようもないほどつまらない。
ビジネスでもただの歯車として予定調和的に生きることに幸福はあるのか。拝金主義とまでは言わないまでも、思考を放棄してまで金を得るのはどうにも醜悪である。

「では、どうすればよいのでしょうか」と、周りに答えを求める時点で間違いである。
「誰かさんが決めた正解」などここには存在しない。自分自身の中にしか、「どうすべきか」に関する答えは存在しない。
限りなく厳しく自己を省察した先に何らかの「面白さ」があれば、それは間違いなくあなたにとって「正解」であるはずだ。

そこにあるのが知識であり教養なのである、と私は信じている。
教育とは、正解を出す営みであり、同時に人間性の回復なのである。
そんな風に筋書きから離れた個人が、自らの教養を持ってアドリブを繰り返すべきだ。

歯車の中に歯のない円があって何が悪い。
だからこそ社会は面白くなる。

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