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子供、無情すぎ問題

先日たまたまABEMAで「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」を見ることがあった。2001年の作品なので、見たのは20年以上前だ。懐かしいなと思いながらしばらく見ていた。

子供向けの作品ではあるけれども、大人になってから見ても十二分に通用する名作だ。

「過去を生きる大人たち」と「未来を生きたい子供たち」の対比が極めて秀逸だ。「懐かしいにおい」に引き寄せられ、安心できる変わらない過去に身を投じる大人たちの気持ちがわかるとともに、子供にとっては「どうなるかわからない」未来にこそ希望があるわけで、いよいよ30代に入ろうかとしている今の私はまさにそのはざまにあるのだろうななどといろいろ感じたわけである。

何より、子供に戻ったひろしが自分の悪臭のする靴のにおい(要は昔ではなく、いまのひろしのにおいである)をかいだときの回想シーンは涙なしには見られない。

自転車の後ろで父親の大きな背中を見ながら故郷の風景を眺めていた日々は、一人で通学する日々になり、そして初恋のまぶしさと失恋のかなしみを味わう日々になり、そしてみさえに出会い、しんのすけがうまれ、家ができて、そして青々と茂る道でしんのすけは、きっとひろしの大きな背中を自転車の後ろから見上げている――家族とは繰り返される歴史の営みそのものであるということに気づいたそのとき、ひろしは大人に戻って未来に生きる決意をする…というそんなシーンだ。

不覚にも涙が瞳をあふれたとき、ふと私は「2001年当時、何を感じたっけ?」ということに思いが至った。
確か当時、親とこの映画を見に行ったが、「作画がすげえな」とか、そういう表面的なことにしか目が向いていなかったことを思い出した。

泣くことというのは赤ちゃんの仕事だ、と言われることがある。
大人になると人前で泣くなんて…と、男性であれば特にはばかられる。
しかし、一つの物語や言葉に触れて涙を流せるというのは、それだけ深い意味のあることに思いをはせることができる、ということの表れでもある。

逆に言えば、こどもには日常への鋭敏な感性こそあれ、「”そういう”感性」はないのだ。
「オトナ帝国の逆襲」をみて「作画がすげえな」としか思えない子供(というか昔のわたし)の無情さには衝撃を受けざるを得ないわけだが、振り返ってみれば大概子供のころには大人が涙を流しているのをけろっとした様子でみていたものだ。
老人ホームの慰労みたいなのに小学校の時よく駆り出されていたが、歌うだけで入居者が泣いていたりして「なんでこのひとたちこんな泣いてんだ?」と思うこともしばしばだった。
でも人生が薄っぺらいから、そんなもんだったのだ。

「そうだよなあ」「すばらしいなあ」と思える感性を磨くことはすなわち、自分自身が様々な経験を経て人生を分厚く生き、振り返れるだけの時間を得た先にあるものなのではないか。
長い時間を生きる価値はそこにあるのだろう。その答え合わせは自分の人生だけができるものである。

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