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【育児】ことばのやりとりのはじまり

大人になると人と人とのコミュニケーションは言葉を通じて行うことがしばしばである。
その際にいろいろ便利な言葉があるが、その代表格が「アッス」ということばだ。

これは特に男性の間で多用される言葉の一つである。
人と出会ったときも「アッス(おはようございます)」だし、感謝をするときも「アッス(ありがとうございます)」、別れたときも「アッス(おつかれさまでした)」である。なんなら頼み事をされて「アッス(わかりました)」もイケる。
なんだかわからないのだが「アッス」と言えば会社の人でも友人でもなんか通じ合う。実に「アッス」は便利な言葉だと思ったのだが、最近こういう便利な言葉を娘も使い始めたことに気づいた。

それが「ん」ということばである。

妻と娘のコミュニケーションを見ていると、大体は妻が一方的に娘に対していろいろと語り掛け、娘がにやりと笑ったり、何かリアクションをとったりしていることがしばしばであったのだが、1年ほどこんな調子で繰り返していると、娘も言葉を自分で扱ってみたくなったようだ。
もっとも、娘はまだ巧みに言葉を語るわけではない。そこで伝家の宝刀「ん」の出番である。

たとえば本を読んでほしければ本をもって「ん(読んで)」といい、お茶をとってほしければお茶のほうを指さして「ん(お茶を飲みたい)」といい、目の前で手を広げて「ん(抱っこして)」という調子である。「アッス」に劣らない汎用性をもつ「ん」を娘はこのところ連呼している。

こういう言語使用の状況を見ると、人は言葉そのものの意味だけを把握して言葉を理解しているわけではなく、その言葉に至る文脈や状況をみて理解をしている、ということがよくわかる。
「ん」とだけいわれれば「?」だが、お茶を指さしているな、とか、手を広げているな、とか、本を持っているな、という目に見える状況があったうえで「ん」となれば、なるほどそういうことかと理解もしやすいわけである。これは言葉に頼って生きる我々大人がとかく忘れがちな観点のひとつだ。

そしてコミュニケーションの本質のようなものも娘が教えてくれている。コミュニケーションは言葉だけで存在するものではなく、周辺の出来事やアクションとあわせて言葉を使うことで成り立つものだ、ということだ。

外国語が離せない時にとりあえず笑っておくとなんかいい感じになるが、まさにあのときの感覚に近い。
外国であればそこはかとない不安のなかでぎこちない笑みを浮かべつつ「イエーイ」などといってみるものではあるけれども、生まれてこのかた娘は屈託のない笑顔を浮かべる。
コミュニケーションが取れない不安や、通じなかったらどうしようといった迷いはそこになく、躊躇なく「ん」の一言が私にコミュニケーションを迫るのだ。

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