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泡まみれの都知事選に

選挙で当選が見込めない候補を「泡沫候補」と呼ぶ。
かつては大日本愛国党の赤尾敏氏や宗教家の又吉イエス氏が有名だった。当初泡沫候補として面白がられていたスマイル党のマック赤坂氏は本当に当選してしまったという珍妙な歴史もある。

総じて泡沫候補は選挙の中で「エンタメ」として消費されてきたきらいがあるわけだが、今回の都知事選は度を超したエンタメと化した印象だった。
名作「1984」とまではいかないが民主主義や自由主義におけるディストピアを見せられている感覚である。

立候補者は56人いるが、実際当選の可能性があるのは小池氏(万が一、蓮舫氏、石丸氏)くらいで、あとの53人は言ってしまえば「泡沫」である。

各個人が主張していることはいろいろあるのだが、なぜここまでの人たちが立候補したのか。その理由の主だったものが「目立てるから」、そして「金になるから」だ。
衆院補選で「つばさの党」という政治団体が選挙の邪魔をするなどして話題になった。彼らはユーチューブで選挙活動の様子を配信するなどして広告料収入を得ていたという。代表の人間は「選挙にさえ出れば合法的にやれる。ぜひみんなもやってほしい」「再生回数半端じゃない。これが究極の落選運動だと思うので、はやらせたい」などと言っていたらしい。
選挙により単に目立って承認欲求を満たせる(?)のみならず、金になる時代にもなったようだ。

今回の都知事選も実にひどい様相だが、こうした選挙のいまをみて「民主主義の愚弄だ」とか「政治は終わっている」などと言いたい気持ちはわかる。
そしてなにより、確かにそんな感情を抱くのは極めてまっとうである。

ただそもそも、民主主義とはわれわれ民衆が最終的な政治的意思決定をする仕組みのことである。さすれば、民主主義を愚弄するとは、我々民衆が政治からバカにされているということでもある。
かつてプラトンなど昔のギリシア哲学者は、優れた能力を持つ哲人が民衆を先導して政治を行うべきだ(要は独裁)として、民衆が幅広く参加する民主制とは「衆愚政治」に堕するということを指摘した。
私はみんなが自由で適当に過ごすのが良いと思うので、独裁によって支配されることがいいとは全く思わないけれども、かたや民主主義がそのうち衆愚に堕するというのは理解できないことではない。英政治家のウィンストン・チャーチルが「民主主義は最悪の政治形態」との言葉を残したのは、その点を踏まえるとそれなりに示唆的でもある。

泡沫候補にあふれかえる都知事選などをみて「民主主義の愚弄だ」と憤るのは自由だが、それは翻って、わたしたち民衆の愚かさと政治への無関心の象徴でもある。象徴的なのはそうした泡沫候補を下手に祭り上げてみたり、選挙そのものに参加せずに投票率が半分以下に低迷する現状に表れている。民主主義であるのならば、「どうしようもないほどくだらない政治」の最終的な責任はわたしたち民衆にある。

「我々が悪い」と言われると反論したくなる気持ちが生まれるものだ。確かに多くの人がいうように政治に選択肢がないのは事実だし、政治がどうしようもないほど腐敗しているのも事実だ。
だからこそ「どうしようもない」と諦めるのではなく、何かできることはないか…と思い立ってみることが重要なのだろうと思う。私もそんなに偉そうに言える立場ではないけれども、そう思うのだ。
別にいたずらにデモ行進をすればいいというわけではない。社会に関心を持ち、いまという現実を見つめ続けることで「社会はかくあるべし」という世界観を作ったり「これはおかしい」と疑問を持ったりして、自分ができる範囲で社会の漸進的な改善のためにできることをやればいいのだと思う。
みんなが政治家になる必要もないし、政治家にならなくてもできることはある。妙なインフルエンサーの人に踊らされる必要もないし、地に足をつけて考えれば良いはずだ。

泡などすぐに割れてしまうもので、それにいちいち目を付けてああだこうだと批判してもあとには何も残らない。
再三言及しているが、「泡」だらけで堕落した政治の現状は残念ながら民衆であるわたしたちの問題でもある。悪夢のような現代政治が「うたかたの夢」であったと将来に振り返るために、淡々と私たちは現実をみて、頭を使わないといけないのだと思う。

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