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納得「感」のナゾ

世の中で起きていることを正確に理解するというのは難しい。
それだけに、一個一個の事象を丁寧に説明してもらい、ようやく納得することが多い。

納得をした際に、「納得”感”がある」ということを言う人がいる。または理屈が通っていることでも、説明をするとなぜか「うーん、納得感がない」といったフィードバックを受けることがある。

「納得感」というのは思わず素通りしてしまう言葉の一つなのだが、よく考えてみると妙でもある。
理屈の話をしているのに、最終的に「納得感があるかないか」という感覚の話に変わってしまっているからだ。

「納得ができない」というのであればどこかしらにある理屈のおかしさや論理の飛躍を突いてくれれば「ここの説明に無理があったのか」「ここはちょっとわかりづらいのか」などとこちらも納得できる。
ただ、「納得感がない」といわれてしまうとこちらとしては実は為す術がなくなる。「ああそうですか」とか「徹頭徹尾理屈の話なので、あなたの感覚がどうなのかは私にはわかりかねます」とかそんな受け答えになってしまう。
私自身そんなにバチバチと議論と戦わせるタイプでもなく「まあいろいろあるけど仲良くやろうや」というスタンスの人間なので、逐一突っ込んだりはしない。もっとも、こんな素っ気ないコミュニケーションを取ると間違いなく嫌われるのでやめたほうがいい。

しかしこの話からよくわかるのは、私たちが感覚から逃れるというのは極めて難しい、ということなのだろうと思う。
感覚として納得したような気になると、それきり議論をしようという方向には向かいづらくなる。もっといえば、納得感があるというのは「わかった気になった」ということでもある。
特別頭が良い人間でもない限り、アウトプットをしたり議論をしたりして、本当の意味で理解し納得をしたのかを自ら確認し続けなくてはならないのだろうと思う。「なんかそんな気がする」という浮ついた「納得感」だけで動くことは、時に有害な発信をすることにつながるのかもしれない。

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